2007年12月31日月曜日

年末の出来事


ポルトガル(というより欧州)は日本に比べると、はるかに新年よりクリスマスが重要で、そうした気配は街の雰囲気からもよくわかった。

日本の静かな年始はこちらではどうやらクリスマスが相当するようで、家族や友達とゆっくり過ごすものらしい。僕自身も事務所で何度もクリスマスは家(日本)に帰るのかと尋ねられた。

というのも、ポルトガルの外から来ている人たちはこれを機に、クリスマス3,4日前から年明け一週間ほど地元に帰る。それも用意周到なことに、2ヶ月も前にボスに了解を得ていた。

一方、僕はこうした連中のどさくさに紛れて、スペインに遊びに行くつもりだった。
ところが、クリスマスを三週間ほど前にひかえた頃、上司に休暇の打診をそれとなくしてみると、「だめだ。」と即答される。

僕は一瞬戸惑った。そこへ彼はポルトガルはクリスマスとイヴ、場合によっては26日も休むけど、他は休まない。一日は一応休むけどそれ以降は普通に働くんだよ。夏じゃないんだよ。と諭してきた。

僕はやむなく、予定を変更せざるを得ない。
出発の日程を2日遅らせて、帰国の日程も2日早め、この調整で12月28日と新年の2日、3日の合計3日間を休むことにした。
数日後、インターンのスイス人学生がボスにクリスマスの休暇をほんの数日前にもらったと言う。しかも、ボスの方から3週間を提案してきたらしい。因みに彼女は学生で休暇の要求そのものに立場上、恐る恐るといった感じだった。(ヨーロッパでは建築科の単位の一つとして事務所で実務のインターンを行う場合がある。)彼女のそういう態度を見かねての計らいだったのかもしれない。。。

僕は聞く相手を間違ったかと思う一方、あの会話はひょっとして冗談だったのかもと思い出してみる。
だが、予約してしまった航空券の日時はもはや変わらないのだった。


2007年12月29日土曜日

修道院前の広場はだだっぴろい

 地球の歩き方06‘-07‘に掲載されているアルコバサの写真はいつのものだろう。

 修道院前には植木などの植栽が施され、よく見ると駐車場のような使われ方もしている。

 この広場はポルトガルの歴史において重要な4月25日にちなんで、4月25日広場と名づけられている。(この日は1974年4月25日、軍部がクーデターを起こし、ポルトガルが独裁者サラザールの手から離れ新政府が誕生した記念すべき日。因みにこの事件は「リスボンの春」と呼ばれ、この日に由来するものがポルトガルにはいろいろとある。)

 ところが、現在では写真のように何もない、だだっ広い土の広場に直線上に配された石の歩道が数本通っている。 ところが、この地上に描かれた数本の線だけでは、どうも心もとない。正に拠り所がない状態といえる。実際、ここにはほとんど人が集まらず、広場周りのカフェから巨大な修道院の全景を眺めるばかりだ。(そうした意図がもしこの広場の改修にあるならそれはそれですごいことだけど。。。)以前の広場の様子は確かに駐車された車などで雑然としており、見ようによっては汚らしいかもしれない。しかし、そうした広場に面した広場の様子はそれ程悪いものでもない気がする。

 広場をつくったつもりがそこには大きな断絶ができてしまう、この皮肉の方が僕にはよっぽど頂けない。

2007年12月28日金曜日

アルコバサを訪ねて




先日、訪れたポルトガル3都市の中でも、僕はこのアルコバサに来るのが本来の目的だった。というのも今、僕が関わっている計画の敷地がこの街にあり、その敷地見学を兼ねた小旅行だった。だが、この街がリスボンからそれ程遠くなかったこと、加えて近郊に他の世界遺産や小都市があったので、それらを一緒に見て回ってきた、というわけだ。


因みにこの日最初に訪れた小都市バターリャはこのアルコバサとバスで40分とかからない。後でよく見ると、「地球の歩き方」にもこの二都市は合わせて見ることを勧めていた。





ポルトガルの都市は、日本の都市に比べてかなり小さいと思う。東京に住んでいたせいか、街の大きさを実感として持つことがあまりなかったけれど、ポルトガルでは都市という一まとまりがごくごく身近に意識できる。都市間について言えば、その間ほとんど何もない荒野が延々続き、4,50分して、遠方にポツリと都市らしき集合体が見える。といった感じだ。そうした都市のほとんどは緩やかな丘陵地帯に自然発生的につくられ、建物が建っても自然の形状はそのまま残っている。





バターリャ同様、アルコバサにも世界遺産に登録された修道院がある。写真は修道院内部、沈黙の回廊より修道院入り口側を見ている。午前中に見たバターリャの修道院の回廊が、装飾過多で繊細な柱が軽快に中庭を取り囲む一方で、この回廊は堅固な壁がそこから見える中庭の景色を遮ってどこか質素で地味な印象を受けた。


この修道院の目玉は厨房の巨大な煙突。最盛期には約1000人もの修道士たちが生活していたというこの修道院。10メートル以上はあろうかという煙突が厨房の中心に位置している。石の調理台が心なしか今も生臭い気がした。

2007年12月27日木曜日

回廊に射す朝日


朝9:00に開館するバターリャの修道院は、入り口をくぐると巨大な礼拝堂にたっぷりと朝の冷たい空気が満ちていた。心なしか天井まで鮮やかに見える、空気が澄んでいるせいだろうか。。。実際、観光地とはいえ、開館と同時に来館する人などほとんどおらず、人の気配の無さが余計に礼拝堂の静かな佇まいを際立たせていた。


礼拝堂正面の祭壇に向けてゆっくりと歩き出すと、靴の音が鈍く足を伝わってくる。ダウンジャケットのポケットから手を出すと、手足の感覚が無くなるほど体が冷えていることに気が付いた。そしてどこか神妙な気持ちになっている自分にも気が付いた。冷たくなった自分の体が生きている実感を教えてくれるせいだろうか。
否、建築のなせる業か。。。
西洋の教会は何故かいつも妙に落ち着いた自分と向き合せてくれる。この巨大さ。高さか。。。


僕はぱち、ぱちっとデジカメで写真を撮ると、礼拝堂と隣接する回廊へ。係りのおばさんにチケットを渡すと古ぼけた大きな扉を開けてくれた。朝のまだ日の差し込まない中庭と回廊は冷えた空気がじっと溜まっているように冷たい。僕はまだ陽の差し込まぬこの中庭を足早に回っていく。僕はこの寒さが中庭から入り込む外気だと気付くと、繊細な装飾を施された柱に囲まれた中庭が、今、自分のいる回廊と開放的に繋がっていることに初めて気が付いた。僕は中庭の背景で目一杯に立ちはだかる礼拝堂が静かに迫ってきた。

2007年12月26日水曜日

午前9時のバターリャ



 二週間ほど前に訪れたポルトガル地方都市、バターリャ。以前書いたように、この旅は朝早くからバスに乗るなど、かなり気合の入った旅だった。一日で3都市を回ったがその一番最初に訪れたのがこの街だった。


この日朝早く起きて、バスに乗ったものの、バターリャに到着したのは午前9時。僕は前日に夜遅くまで遊び歩いたせいもあって、バスの中ではウトウトとまどろんでいた。気が付くと、バスの時計は8:45を過ぎている。僕は一瞬、寝過ごしたかと眠気が一気に吹き飛んだ。すると、窓の向こう側に突然、巨大な建造物が現れる。それはまるで、荒野に建つ巨大な建造物といった風で、僕の目を釘付けにするも、すぐ障害物に遮られて、見えない。僕は夢見心地で、もう一度見たいという激しい好奇心に駆られた。


 すると、やはり見間違いではなかった。一見、何もない平野に巨大な修道院が建っている。僕は逸る気持ちを抑えきれず、興奮気味にバスを降りると、外気が痛い程冷たかった。週末、土曜日だったこともあって、その時間帯はほぼ全ての店舗が閉まっていた。僕は仕方なくバス停から修道院へと直行。


 バスから見たあの異様な様子は、バターリャの街の小ささとこの修道院の大きさ、存在感の差異じゃないだろうか。見るものを圧倒するというけれど、これもそういった体験の一つに違いない。朝の到来を告げる細い光が建物に黄色く反射してまぶしい。街の端に位置する修道院の入り口は北側にあり、正面は前面日陰になっていた。日の差す広場から修道院の落とした広い影に入るとヒヤリと寒さが増した。僕は建物正面を埋め尽くす装飾を前に黒く開いた小さな扉をくぐってその中へと入ったのだった。



写真は世界遺産のバターリャ修道院の一角、未完の礼拝堂。


2007年12月23日日曜日

ホームパーティーに学ぶ


リスボン生活も8ヶ月が過ぎた。


この12月は自分の誕生日に加えて、クリスマスというビッグイベントも相まって、家で開く簡易的なパーティー、いわゆるホームパーティーがかなりの回数あった。


僕はこのホームパーティーを主催するというのが重荷になる事が多い。


というのも、事前にいろいろと用意しておいたり、何時くらいに始めて、何時くらいに終わるとか、そういう考える必要のないことをいつまでも云々考えてしまうからだ。


こうした心配の背景には自分が主催者として人を呼んでおきながら、会の進行が良くないと失礼かな、とか考えることが多い。パーティーなんて人を招待して、自分なりにもてなせば、後は人がどう感じるかは自由なはずだが、人を招待するからには楽しんで帰ってほしいという思いがどうしても強くなってしまう。


そのくせ、会が始まるとそういう心配を忘れて自分も楽しめるので、まぁ得な性格といえばそれまでだが。。。




こうした心配は「なるようになる」という言葉のとおり、実際は何とでもなってしまう。


ある程度、気心の知れた人たちが一つの場所に集まれば、もし何か起こったとしても、みんなそれなりに知恵を出し合って乗り切れるもの。

この一連のパーティーでそんなことを思いながらも、
未だ、なかなか「成り行き」に身を任せられないでいるんだけれども。。。

2007年12月21日金曜日

市場に行こう。



以前、寿司の話をしたけれど、


ポルトガル、リスボンはテージョ川という巨大な川に面しており、新鮮な魚介類が手軽に手に入るため、意外と寿司を作るのも簡単だった。朝から家の近くの市場へ。艶を帯びたカラフルな野菜が場内を彩っている。まだ、原形をとどめた肉の生々しい姿と鼻を突くような魚の臭みがひやりと肌に心地よい。僕は一通り魚の卸売り場を見て回った後、慣れないポルトガル語で魚を注文し、その魚の名前を何度か口ずさんでみた。


2007年12月20日木曜日

ハッピーバースデープロジェクト



僕の研修先の事務所では誕生日のお祝いを自分で企画するという慣例がある。
僕はそんなことがあるとは露知らず、ついうっかりと自分の誕生日を事務所の友達に明かしてしまった。(まっ、隠すようなことでもないですが。。。)
そのおかげで、自分で開く誕生日パーティーという慣れないイベントをやる羽目に。
僕はこのイベントをつい最近まで、かなり人任せに考えていた。
というのも、誕生日が同日のポルトガル人の友人が事務所にいたからで、「郷に入りては郷に従え」ということに加え、他力本願でもってこのイベントをサラリと乗り切るつもりだった。
ところが、この2,3週間ほど前に突然彼は誕生日当日は外国に休暇で行くと言い出した。
僕は突然の告白に、少し裏切りさえ感じたが、どうしようもない。
彼に何故こんな時期に外国に行くの?なんて意味のない質問をしてみる。
その質問は半分、「誕生日はどうするんだよ。(俺たちの)」という抗議でもあった。
ところが、彼は「いやーそういうの結構苦手なんだよね。何か恥ずかしいしさぁ。」と一言。
「・・・」
「俺だって苦手だよ。だからこそ二人で力を合わせるのかと思ってたよ。俺は。勝手に。」
「(笑)」
僕は持ち合わせの日本製品を駆使して、自分の誕生日に臨むことになった。
因みに、このアイデアは他で使う予定もあった。
何より、「この贈り物はボスがいなければ。。。」という思いもあった。
というのも僕の誕生日にボスは事務所に居らず、そんなタイミングの悪さと、当日、リスボンは久々の雨かと思いきや中心地は断続的に続く雨に見舞われ、昼先に買出しに出なければいけなかった僕の気分にもまさに暗雲が立ち込めた。
だが、そんな気苦労と気合の入った26歳の誕生日は僕にとって、忘れることのできぬ大きな思い出にもなった。
そんな誕生日だった。

2007年12月17日月曜日

毎日クリスマス



クリスマスをヨーロッパで初めて過ごす僕にとって、この一大イベントの盛り上がりは想像以上のものだ。(僕が街の中心に住んでいるせいもある。)日本でもクリスマスといえば、冬の冷たい空気に街中のイルミネーションが鮮やかに浮かぶ。リスボンでも早々と一月前から街路に大型の電飾が登場し、ジングルベルや一般家庭のベランダにもサンタクロースの人形が飾られたり、日に日にクリスマスを待ち望む雰囲気が街中につくられていく。

そうした街の演出と相まって、週末にクリスマス関係のイベントへ出かけていく人たち、仕事場でもクリスマスディナーなるものが企画された。上の写真はその夕食の様子。

夕食の目玉イベントはプレゼントの交換で、僕は予めこういった時のために用意していた日本製品で乗りきった。因みにプレゼントの相手はくじ引きで自分だけが知っており、相手はもちろん、僕自身も一体誰からプレゼントを貰えるのかは一切の謎となっている。こういう時に外国人が自国の物を持ってると本当に楽だと思った。一応、日本の物ということでかなりのオリジナリティを発揮できる。
 
プレゼントで一体どのくらいのものを持ってくるものなのか分からない僕にとって、プレゼント交換が始まるまで、内心、不安もあった。


夕飯は午前2時頃まで続き、家路につく頃、人気のない真夜中の繁華街には電飾がもう燈っていないのだった。

それはまるで、「今日」のクリスマスが終わってしまったかのようだった。

2007年12月16日日曜日

この週末


この週末、土曜日を利用して、リスボン近郊の小都市を回ってきた。

金曜日の夜、遅くまで飲み歩いたせいで朝6時に起きて高速バスに乗るまでがきつかったが、バスに乗ったら安眠、バターリャ、レイリア、アルコバサと三都市を見て回って来られた。
当初の計画ではレイリアに行く予定はなかったが、最初に着いたバターリャが想像以上に小さな町だったこと、交通が不便だったこともあって急遽予定を変更した。
と言っても、実際のところ、計画らしい計画はなく僻地でどうしようもなくなり、偶々来たバスに飛び乗った、と言ったところか。。。


時に大胆さは旅に思わぬ展開を与えてくれる。
今回はそうした大胆さが、功を奏したようだ。


今回訪ねた3都市はいづれも見所となる建物を街の中心に一つずつ持っている。そのうち2つ、バターリャとアルコバサは世界遺産に指定されており、その周囲の景観もかなり整ったものだった。小さな街に大きな見所が映える一方、たった4時間半の時間つぶしもままならない。僕はそんな世界遺産に少し不満を持った。だが、そうした不満はまだまだポルトガルが発展していける可能性も示唆している。(そう思うのは少し傲慢か。。。)

バターリャで世界遺産の建物を見終わった後、次のバスの時間帯を調べて、僕は途方にくれた。
そして、偶々来たバスに飛び乗ったのだった。



2007年12月14日金曜日

明日の選択肢



はいくつありますか?
この三つ等間隔に並んだ扉の前で、一つだけ開けるとしたら一体どれを開けるだろう?
そして、どうしてその扉を選んだのか。
その先に何があるかなんて、分かりゃしないのに。
僕は今、明日朝早く起きて、旅に出るか、一週間の疲れを癒そうか迷っている。
そして、暫く前までここリスボンにもう少し長く滞在しようか、どうしようか迷ってもいた。
さらに、この扉の向こう側が、実はたった一つの道になっていることも知らなかったのだった。

2007年12月13日木曜日

アヴェイロの橋




ポルトガルで建物を見ていると、写真集やインターネットで見たときよりもずっと良いと思うことがある。実際に現地に行ってみて初めて、建物の良さは分かるという単純な原則をポルトガルは改めて教えてくれる。(とはいっても良いものばかりじゃないけど。)

上の写真はJoão Luís Carrilho da Graça(カヒーリョ)による歩道橋。

僕は最初にこの橋をカヒーリョの作品集で見たとき、ほとんど素通りに近かったと思う。一瞬、背景の自然と対照的に写された幾何学の構図は印象に残ったものの、パッと見て、不規則な三角形の連続が構造体になっているとわかると、そんなに気にも留めずに次のページをめくったのではなかったか。(写真集には海抜が上がって河がもう少し満たされているときのものだったと思う。)

しかし、実際に行って見ると、これが意外に忘れられない。以前にも書いたが、アヴェイロはポルトガルの有名な建築家たちがキャンパス内の建物を設計しており、建物の見所はかなりある。この橋はその中でも一、二を争う印象を僕の中に残した。僕はこの橋を事前に知っていただけに、深く印象に残ったことが意外だった。

今、振り返ってみると、やはり写真に撮りきれない空気があること。(写真集などの)写真はどうしても中心としての被写体を持つが、実際に行って見るといろいろなもの(気温とか自分の気分とかも含まれる。)との関係の中で物(建物)が見えること。そして、情報過多な現代に生きる自分が体験的であることより観念的になっていたこと。

まっ 大した事じゃないけど。

2007年12月12日水曜日

霧後晴後霧



朝方の冷え込みで目を覚まし、布団の中のぬくもりで二度寝する。

うとうとと30分もすれば、寒さが眠気に勝ってさっさと動き出さないと体が冷えるばかりだ。

12月のこの時期になっても、家には暖房器具がなく、大量の夏用の掛け布団を重ねて寒さを耐え忍ぶことになりそうだ。

とは言っても、東京の寒さに比べれば全然たいしたことがない気がするのは気のせいか。。。




いやいや、そんなことはない。

まだカイロも使わず、十分過ごせる陽気だ。

何と言っても、この寒さがひどいのは朝方と夜に限られている。


というわけで今回は写真を二枚使ってご覧に入れましょう。







このとおり。 お昼過ぎには雲ひとつない空が広がっている。
寒さに気をとられて過剰な防寒をすると、逆に昼の日差しに汗ばんだ体が冷えて寒い。

そんなリスボンは今日もいつものように晴れている。

2007年12月11日火曜日

ある夜の出来事



最近、リスボンも急に冷え込んできた。
去年の丁度、今日か昨日にリスボン入りした気がする。その時はダウンジャケットを着ていたから結構寒かった。比較的暖かいと思われた今年の冬も、どうやら例年と変わらないのかもしれない。
まぁ、もっとも、ポルトガルに永住するわけじゃないからそんな事は関係ないんだが。

僕の今住んでいる家は旧市街の真ん中あたり5階建ての建物の最上階。
夜、洗濯物を入れるため窓際の小さなベランダに出ると、遠くの方まで空が見渡せる。
僕は大抵、週末にまとめて洗濯するがそういう暇のない週は平日の朝に洗濯機を回し、お昼に洗濯物を乾しに家に戻り、夜に取り込む。

ある夜、ベランダの洗濯物を取り込みながら、ふと夜空を見上げる。
すると、夜の空に浮かぶ無数の星が、目に見える速さで動いている。
僕は目の前に見える星が隣の家の屋根の向こう側に消えていく不思議な現実に戸惑った。。。

地球が動いているっ!という宇宙の法則を垣間見たような気がして、一瞬にして過ぎ去っていった星の軌跡がいつまでも頭の中に残った。
そして、起こるはずのない出来事は過ぎていく時間の早さだけを実感させてくれたのだった。





気がつくと握りしめた洋服が冷たい。
湿った空気が河に向かって吹くと、いつの間にか夜の空には薄い雲が近づいてきていた。

2007年12月10日月曜日

アヴェイロの給水塔



アヴェイロの給水塔。
 先日、ポルトへ行く途中にアヴェイロという街に立ち寄った。
この街につくられた大学はポルトガルの有名建築家たちによるデザインから成っている。
建物個々の見所もさることながら、大学全体の配置計画や素材の規制は強烈な秩序を生んでいた。
そんな中でここでは、大学内の端っこに位置する給水塔を紹介してみたい。
ポルトガルを代表する建築家、Alvaro Siza Vieira(シザ)による設計。


 給水塔、ポンプとか聞いても今ひとつピンと来ないが、25メートルはあろうか。板状に打たれたコンクリート壁の直方体の一辺を支え、その直方体中心から少しずれて、円筒形の階段室(内部は梯子)が全体を支えている。

 一見すると、なんて事のない工業建設の名もないデザインのようだが、一緒に行ったポルトガル人の友人は終始、興奮気味だった。だが、その端で僕はと言えば、単純な幾何形体の組み合わせにどこか不思議な印象を受けながらもほとんど無反応に近かった。彫刻的といえば聞こえはいいけれど、何か物足りなさを感じたし、何よりポルトガルにおけるシザの存在の大きさを、一緒に行った友人の反応から感じた。シザの作品に対して手放しで絶賛するような迂闊さがあるような気さえした。
 だがその一方で、帰った後も消えない強烈な印象が今も僕に残っている。

2007年12月8日土曜日

ポルトに降る霧雨


 昨日、土曜日にポルトまで車で行ってきた。
事務所の友達の運転する車に便乗してのポルト行きはこれが二度目だ。前回は6月頃だったのに、なんか今回の方が暖かく感じるくらいリスボンはカラッと晴れていた。

ところが、ポルトは写真のような雨。。。
しかも霧雨で、視界は悪く、空気中をヒラリと舞う雨は傘の中に簡単に入ってきた。
どうせ濡れまいと侮ると、いつの間にか体温が下がる程濡れている。

ポルトの街並みを濃い霧雨が包む。

※前回のポルト旅行記はこちら。
ポルトへ 07 ,06,17
歩け 07 ,06,17
ドウロ河のほとり 07 ,06,17
ポルトの歴史地区 07 ,06,17
酒 07,06,17

2007年12月6日木曜日

インディペンデンス・デイ


みたく、目の前に飛来したUFO!
写真は先日スペイン南部の都市、マラガに行く途中に撮影したもので、Francisco Aires Mateusによる高速道路の料金所。
写真中央にみえる滑走路のような緑色に点灯するラインはETC専用をあらわしている。
機能重視でありきたりな形になりがちな高速道路の料金所にしては珍しくデザインされている。
デザインを頼む方もかなり珍しい気がするけど。
遠方に見え始めてから、近づいて通り過ぎるまでの見え方がなかなか面白く、
自分が走っているのに、向こうから向かって来るようにも見える。。。
07,11,09

2007年12月5日水曜日

街はまだ眠っている。

  朝起きると、いつも射し込んでいるはずの太陽の気配はなく、窓の外には白黒の街が見える。
 
 窓を開けると、消音を解除したステレオのように朝の喧騒が聞こえてくる。

 ビーッ!というタクシーの警笛とデコボコとした道路をゴロゴロと音を立てて車が走っていく。

 寝ぼけながら支度をして、5階から1階へと降りていく。

 木造の階段に響く足音は朝の眠気を咎めるように僕を起こす。


 だが、入り口の扉を開けると、まるでまだ眠っているかのように街は霧に覆われていた。

2007年12月4日火曜日

12月の霧


 いよいよ12月。今年も残すところ1ヶ月となった。
 リスボンの12月は霧で始まった。
 夏にも一度見たことがあったけど、リスボンを流れる巨大なテージョ川からもくもくとあがる霧。
 一見して分かりづらいかもしれないが、上の写真は目の前に広がるはずの川が霧でほとんど見えなくなっている。普段は川面からの照り返しが強くてまぶしいけれど、この日は川に架かった霧が薄く発光する雲のようだった。
 外に出るとさすがに空気が肌に冷たい今日この頃。

2007年12月1日土曜日

ビルバオ・グッゲンハイム美術館


 フランク・O・ゲーリーという建築家をご存知だろうか?

 上の写真はスペイン・鉄鋼の街、ビルバオに建設されたグッゲンハイム美術館。これがそのゲーリーの作品だ。一見して何が何だか分らない程、グニャリと歪んでいる。 この建物は今や彼の代名詞ともなっている。水平、垂直の建物を見慣れた私たちにとって、造形的な彼の一連の作品は、そのほとんどが彫刻的と言っていいくらい自由な形をしている。


 鉄鋼の街・ビルバオは至る所に金属で出来たパブリックアートが置いてある。街の中心部は格子状にきれいに区分けされて、心なしか歩道が広い。雲一つない空の下、川沿いの道をグッゲンハイム美術館に向かって歩いた。川沿いの道は対岸と程よい距離をとって、川の流れに沿って遠くまで見渡すことが出来る。 きつくカーブした川沿いの道に、金属の鈍い照り返しと異様な建物の形が見るものを圧倒するかのようにゆっくりと私の前に現れた。

 写真は美術館の入り口部分。ゲーリーはよく「魚」をモチーフにするが、この入り口部分は波打つ壁面のせいか、まるで海の中に潜って行くような気分だ。入り口を入ると巨大な吹き抜け。波打った壁面に混じってガラスを支える構造体はかなり無骨だったが、全体の大きさから言えば決して醜いものではない。むしろ、どこか力強い印象さえあった。


 3層吹き抜けの波打つような壁面とエレベーターシャフトを取り巻く曲面状に配置されたガラスが、ダイナミックなエントランスホールとなっている。視界の至る所に現れる人影は何だか見ていて目が回るようでもあった。
 各展示室はかなり大きめのものだが、異様な外観がそのまま内側に現れる部分はところどころにしかない。巨大な展示室はまるで、そこに置かれる、あるいは行われる作品を寛容に受け入れるかのようで、作品の大きさによっては展示が困難なのではないかといえるほど大きい。


 しかし、展示室の多くは、決して展示作品とにらみあうような関係ではなく、静かで穏やかなものではなかっただろうか。むしろ、展示作品から発せられるエネルギーを存分に演出していたと思う。そのせいか、展示を見終わった後、私はクタクタに疲れていた。

07.07.06

2007年11月30日金曜日

岬の先の白い建物


先週の週末、リスボンから電車で40分ほどの海岸の街、Cascaisに行ってきた。今年の7月に竣工した、Francisco Aires MateusのFarol de SantaMartaを見るためだ。
クリスマスイルミネーションの施された商店街を抜けて、10分ほど海岸沿いを歩くと、岬にポツリと白と青の縞模様の高い建物が見える。灯台だ。その下には真っ白い寄棟造りの建物が冬の冷たく青い空に映えて奇妙に見える。

 この建物は灯台を改築して、ポルトガルの灯台の歴史と海洋技術に関する数点の展示を行っている。入り口の門を抜けると、突然、目の前に一列に並んだ真っ白い塊が4つ見える。一見して大きいのか、小さいのかわからなくなるような白さだ。というのも見る限り、ベンチや窓といった人との大きさ関係を示すものが一切なく、敷地の一番奥に見える灯台だけが異質に見える。不意を付かれた驚きを前にゆっくりとその白い塊に近づいてみる。正面入り口からは見えなかった大きな開口部や小さなドアが見えてくると、中に置かれた家具がこの白い塊の大きさを教えてくれるかのようだ。

 この施設は旧灯台施設部分と拡張部分の二つから成っている。白い塊と入り口は拡張部分に位置し、旧灯台施設はその奥の海に面した部分にある。旧灯台施設には全部で3棟の寄棟と灯台があり、拡張部分と門型の壁で仕切られている。

 海岸沿いから見えた寄棟造りの建物は、よく見るとタイル張りの仕上げになっている。一定のパタンで張られたタイルは一枚一枚が微妙に歪んでおり、どこか味がある。3棟ある建物の天井型はそれぞれ異なり、寄棟、アーチ、切妻と3種類あるが建物内部は黒く塗装されていて、内部で天井の違いを認識することはできない。そのことが僕には少し残念だった。

2007年11月29日木曜日

ミサ


 他人にとっては何でもない場所が自分にとって、とても大切だったりする。

 写真はリスボンの旧市街地中央、ロシオ広場の脇にある教会。

 先日、この教会で行われたミサに偶然参加して、その独特な一体感に感動を覚えた。
 教会、朗読、傷んで欠けた壁、オルガン、十字架。

 人それぞれの思いが、自分の内側に向けられた眼差しが、そうした音や匂い、空気と一緒になった不思議な高揚感。

 荒廃した壁に割りと新しい屋根がかかっているだけで、これと言って、重要な建物でもないようだけれど、不思議な魔力を放っている。

 この教会は、去年の冬にリスボンを訪れた際、ふらっと立ち寄った場所でもある。
 
 ぼんやりと椅子に座っているとじわりじわりと、「このまま学生を卒業するか、外国で一年間生活できるか」という宙ぶらりんな不安が募ったのを思い出した。

2007年11月28日水曜日

空には鳥

 東京はもうそろそろ、息が白くなる頃だろうか。
リスボンは相変わらず、ぽかぽかとした昼時が続いています。
一週間ほど前はついに雨季が来たか!と思ったけど、どうやら一過性の雨だったようだ。
それでも、リスボンもだんだんと寒さを増してきていて、朝方と夜の冷え込みがきつくなってきた。

 冷たい空気が肌につく頃、東京の透明感のある空はどこまでも広がっていく。
そんな冬の日が僕は好きだ。

 リスボンの街におとずれたそんな冬の日。
突き抜けるような青い空には無数の鳥が乱舞していた。

2007年11月27日火曜日

人を案内して思うこと


 先日、アフリカに向かう途中の友人にリスボンを案内した。
多くの日本人にとって、ポルトガルというのはなかなか想像がしにくい国だと思う。
それこそ、江戸時代の貿易とかそのくらい遡ることになる。
 しかし、そうした未知の部分があるからこそ、新鮮で単純な驚きや喜びがある。
 この国を立ち寄る日本人の多くが、密かにそう教えてくれています。
 そして、そう思うと案内するのもなかなか楽しい今日この頃。。。
 写真はパンテオン屋上より旧市街、アルファマを見渡す。

2007年11月25日日曜日

クリスマス始まる!

 半月ほど前から始まったイルミネーションの飾りつけもいつの間にか終わり、ついに先週末から点灯が始まった。


 去年の12月、不安を胸にリスボンを訪れた時の事を思い出した一コマ。

2007年11月21日水曜日

頂けない煙



ポルトガルは日本に比べて、非常に喫煙率が高い。

街を歩いていても、くわえタバコ、ポイ捨てといったことを普通に見かける。

日本にいれば、これはマナーが悪いということになるんだろうが、国が変わればマナーも変わるということであまり文句も言わずにきた。

やおら、ポケットからタバコを取り出し、トントンっと指でタバコをつまみ上げ、慣れた手つきで火をつける。ふぅーっと空気を描いた煙が、ゆるく宙をたむろする。
そんなタバコを吸う仕草は時に魅惑的でもある。

だけど、食事中の喫煙だけは頂けない。
食後の一服を語る喫煙者は多いだろうけれど。。。

2007年11月20日火曜日

お昼を考える -これぞ、my life-


ここ数週間、お昼を家につくりに帰っている。

事務所のお昼休みは各自適当に取ることになっており、1時から2時半くらいの間になっている。
僕はポルトガルで長すぎるお昼休みというのに結構苦労してきた。特に一人で昼食をとると、話す相手もいない上、そんなに大そうな物を食べるわけでもないので、早く昼食が終わってしまう。かと言って、その足で事務所に戻っても、事務所に弁当を持参した人達のランチが続いており、下手をすると「まだ、働いてたの?」なんて聞かれたりすることもあった。


今年の夏頃までは事務所近くの惣菜屋で日替わりのメニューをそれぞれが頼んだりして、みんなで昼食をとることが度々あったが、そのお店の調理場付近にゴキブリを見てからみんな行かなくなってしまった。


その後は近所のレストランに行くことが多かったが、前出の惣菜屋に比べて値段が倍になるためあまり行くことがない。所員の何人かは家に帰ったりする。そういう状況もあって、僕も最近では家に昼食を作りに帰ることが多い。


そういう生活のサイクルは僕には不思議なほど新鮮で、楽しんでいる。特に、家に昼を食べに帰るという経験自体初めてかもしれない。家に帰る道々、昼の献立を考えたり(そんなに立派じゃないけど)、午後のことを考えたりする。事務所に戻ると、また朝と同じような始まりの気分になる。


事務所の所員(ほとんどが車で通勤)に比べて、家まで帰るのに時間がかかってしまうため、家に帰って、つくって、食べ終わるのにどうしても最低1時間半はかかる。

結果、僕は他の所員たちと大体同じくらいから働き始めることができるわけだ。

その上、自分で昼食をつくれば昼飯代は1ユーロ(160円)しないときた。


きた!


これぞ、my life



2007年11月19日月曜日

雨キタル

ついに、リスボンも雨季に入ったようだ。
毎日のように晴れていたリスボンも11月の始め頃から、時折肌寒さを感じる日が増えた。
今年は例年に比べて雨が降り始めるのが遅いらしく、僕の個人的な予想ではこうして寒くなるのもやや遅かったのではないか。
昼夜の寒暖の差が激しいリスボンではつい2週間ほど前まで、日中半袖を着ている人を見かけたが、今ではほとんど見かけなくなった。
写真は事務所の座席から見上げた空。


今、こんな空が懐かしくも感じるのです。


2007年11月18日日曜日

Seu Jorgeを聴け

  Seu Jorgeのライブに行ってきた。

 会場となったColiseu dos Recreiosは旧市街と接するRossioから歩いて10分程度の場所にある。
 現在、大通りとなっているAvenida da Liberdadeの裏側に位置し、その通りはかつて大通りとして使われていたらしい。
 会場の雰囲気は、ライブハウスに近い。 タバコ、撮影、(録音も?)可となっていた。
 この施設はおそらく古い建物の改装だが、その味は今ひとつで、外観が立派な割りに内部空間はイベント施設として使える最低限の空間構成だったと思う。主会場となるホールは円形平面で壁面部の客席は三層(一、二層は座席。三層目は立見席となっていた。)ホール入り口までのアプローチがいろんな意味でちゃっちい。。。

 そして何より驚いたのは開演9時になっても人の入りが今ひとつ。それもそのはず、最初にステージに上がってきたのは、なんと前座のグループだった。結局、そのバンドは45分近く演奏した後、一旦、中休みを経てSeu Jorgeの登場という構成になっていた。大物ワンマンライブに前座なんてあんのかよっ!と動揺。(ワンマンじゃなかったのかも。)しかし、ここリスボンでは普通のことなのか、Seu Jorgeの登場前には会場は超満員になっていた。

 中盤、ソロでDavid Bowieのカバーを何曲か演奏したが、ライブは終始、多彩な楽器から繰り出されるリズムと、タバコの煙が会場全体に立ち込めていた。そして最後のアンコールで客がステージ上になだれ込むというパフォーマンス。。。

満足度◎

07.11.12

2007年11月14日水曜日

建築批評について


大学の授業で書いた小さなエッセイの話をしようと思う。





これは大学の授業のひとつで、建物を各学生が批評しようというものだ。


言葉で建物を表現することの難しさや楽しさ。目に見える世界に自分の言葉を与えていくことは、何とも言えない面白さがある。実際に建物を目の前にすれば、全ての人がその建物を理解、あるいは体験できる。しかし、その体験はそれぞれ違ったものであり、自分の五感を通した体験に言葉を与えていくことはなかなか難しい。




自分の手によって描かれた文字の世界。



果たして、自分の見た世界を十分に描ききることができるか?

この授業を通して、「建築を批評するにはある程度の時間を置かなければいけない。何故なら、具体的な体験を客観的に見られるようになるまで、ある程度時間がかかる。」という言葉に大いに共感した。


そして、自分自身の言葉が文字という肉体を得ると、自分自身の書いた言葉が自分自身に戻ってくる、そういう問いかけを実感した。



このブログはその建築批評の経験をきっかけに成り立っている。




と、いうことで建築批評の宣伝になっただろうか。



2007年11月13日火曜日

不幸と話




私の友人・Kは「人の幸せなんて誰も聞きたかないぜ。」と言って人の幸せをうらやんだ。
そして、現実に起こった自分の身の回りの不幸を話してくれた。

私は話半分でそんな話に耳を傾けていた。

だが次第に、その話が必ずしも不幸な話であるとは限らないことにも気がついた。

「どうして君の不幸はそんなに面白いんだい?」と尋ねてみた。

「そりゃ、不幸を不幸として話したら、君、やっぱりお互い耐えられないじゃない。」

「本当の不幸ってのはやっぱり人に話せやしないんだな。それに、本当の不幸は本気でその人と切り結ばなきゃならない。不幸には人を結びつける力もあるんだよ。」


「だけど、それに失敗したら、そいつとはもうそれきりだね。それっきり。」
07.9.12

2007年11月7日水曜日

コーヒーカップの割れ目から


普段の何気ない生活が見えた。

あぁ 7ヶ月。

2007年11月5日月曜日

古い街で安心

上の写真はチェコ、プラハの広場


広場に燈るオレンジ色のナトリウムランプは夜の雰囲気を一層引き立たせてくれる。

ヨーロッパと日本で広場ほど違うものもないだろう。ヨーロッパの広場は街の中心としての役割を果たし、外国からやってくる人に対しても同じように開かれている。

 私はこういうヨーロッパの広場が好きだ。これに似た広場が日本にもあるだろうか。そう思いながら、この広場を眺めてみる。

 壁のようにそそり立つ巨大な教会が視覚的に街の背景となって、広場に固有性を与えている。この教会がこの広場から見えるという事がどれほどの意味を持つかは言うまでもない。そして、この広場と教会の関係はそう簡単に変わることはない。こうしたヨーロッパの広場は、永い間、変わることを許されない退屈さを含んでいる。

 だが、どこか人を安心させてくれるものではなかろうか。


見知らぬ人が出会う異国の広場にて。 07.08.20

2007年11月4日日曜日

外国で初体験

リスボンに来て早、半年。

ここ最近、自分の時間と仕事とのバランスが非常にいい毎日を過ごしている。
そんな余裕もあってか、日本料理に挑戦してみることに。

お寿司。

初めて作ったにしては上出来といえる味だったと思う。
握り寿司まで作ったが、人生初ではなかろうか?
さすが、外国生活。。。
なーんて、自分をからかって苦笑してみた。

2007年10月28日日曜日

接続障害は突然やってくる


 せっかく、気分良く書き始めていた10月も、思いがけぬ接続障害にあって、アップロードできない状態が暫くの間続いていました。未だに原因がよくわかりませんが、ここ数日の様子を見ると、どうやら回復してきた様です。 (多分ね。)

 私は今年の四月にリスボンで住まいを探すにあたって、インターネットの利用を重要視して、住まい探しをした。ポルトガルではインターネットは一年契約が常識らしく、それより短い期間の申請はできない。(多分)このため、最初からネットの環境を持っている住まいを探さなくてはいけなかった。


 日本で聞いた事もない制限として、ダウンロード制限というのがある。私の住んでいる家では1Gのものを使っている。これはインターネット上でいろいろなアドレスに行く度に、最初にダウンロードするデータ量を指しており、これまでそんなことを気にしたこともなかった私には暫くの間、なかなか実感のもてないものだった。

 ところが、ある日「今月はダウンロード1Gを越えそうだ」と同居人が注意してきた。(契約者には一応、注意のメールが送られて来るらしい。)このことが起きるまで、私はダウンロード制限の意味をネット上にある様々な動画やメールに添付されるデータなどのことだとばかり思っていた。この指定の容量を超えると一定容量当りの金額が高くなる仕組みになっている。



 私はこの制限の意味を理解するなり、パソコンでインターネットに接続することが億劫になったことさえある。(因みに家はダイヤルアップね。)さらにインターネットトラフィックと呼ばれる、国内と国外のサイトを区別する加金システムにはほとんどムカついた。

「大体どこでそんなの区別すんだよっ!」

「Google.com ptは国内サイトですか?」と言う質問に「だから、インターネットトラフィックなんだよ。」という会話の展開にはほとほと疲れた。



 だって、これじゃskypeで日本にワープすることもgoogle earthで世界中に冒険に出ることもyoutubeで文化的生活を送ることもできないじゃない。。。

 できないじゃない。。。



 今回のトラブルはこうしたことと、どうやら無関係だったのだが。。。

2007年10月8日月曜日

反復する大地


 どこまでも広がっている平たくて人工的な大地オランダ。
 今夏、一番長く滞在したオランダはあまり印象のいい国ではなかった。
もちろん目を奪われるような部分もあったけれど、長い歴史を売り物にしているヨーロッパの他の国に比べるとどこか安っぽく、表面的に見えてしまう。以前このブログにも書いたが、旅で見える部分なんて結局一部分なんだけれど。「景色の落し物 07,08,30」 「思い出 せ 07,09,01
 オランダのスキポール空港からデン・ハーグ、デルフトと南下する列車から見える景色はどこまでも平たい大地に突然、密集する建物が見えたかと思うと、また田園地帯というようなことの繰り返しだった。中でも集合住宅にはいろいろなタイプがあり、それぞれ面白そうに見えて、どこか落ち着かない。
 例えば、きれいなテーブルの上にフルーツケーキが置いてある。ここはいろんなケーキの置かれたケーキ屋だ。否、「ゴデュバ」のチョコレートがあれば「不二家」のプリンがある、ケーキの王様「シブースト」があれば、和菓子の神様「漉し餡の最中」がある、といった様子はデパ地下に近い。だがデパ地下のような雑雑した様子はなく、なんとなく静かだ。
 
 思うにオランダのこうした集合住宅はある範囲の中で行われる実験的な意味合いが強く、それらを結びつける点にはあまり注意が払われていない気がした。
 人間の生活の多くが反復であるのと同じように、建物も反復という手法が多く使われる。人間の生活に週末というスパイスが一定の反復に刺激を与え、活性化させるように、反復する建物の集合にもこうしたスパイスが必要ではないかと思う。

2007年10月7日日曜日

プラハの大聖堂


 ヨーロッパに来て、驚くものの一つに大聖堂がある。
 これはどこの大聖堂に行ってみても、何かしらの感動がある。上の写真はこの夏、遊びに行ったプラハのヴィトー大聖堂。天に向かって伸びる様子は内部でも高い天井と呼応して、まるで空だ。
 とにかくその大きさからくる感動は半端じゃなく、高い天井にこだまする人の足音やステンドグラスを通した幻想的な光はいつの間にか私たちの心を奪ってしまっていた。特にステンドグラスの光は薄汚れた外の壁からは想像もできないほどきれいで、ほとんどの窓が柔らかくなまめかしく発光していた。
 今でこそ、観光の目的でも開放されているが、その昔、祈りの場として、人々の想像力をどこまでも高めたに違いない。

2007年10月5日金曜日

泪橋を逆に渡れっ!



人生は繰り返す。「十年前の自分を思い出せ。そこに今の自分がいるはずだ。」 岡本丘人


「ジョー! 忘れちゃいけねぇ!たとえ今日がどんなに惨めでも、おめぇさんが「拳闘」ってもんを忘れねぇ限り、必ずあしたって日が来るってことを!」               あしたのジョーより

私はたかがマンガと言えど、こんな目の覚める様なフレーズに溢れたマンガを知らない。


「拳闘」の部分は人によって異なるから「○○」として「勉強」 でも「仕事」でもいい。


「○○○! 忘れちゃいけねぇ!たとえ今日がどんなに惨めでも、おめぇさんが「○○」ってもんを忘れねぇ限り、必ずあしたって日が来るってことを!」                 人生のセコンドより


                  (1997年10月05日 僕の日記)

2007年10月4日木曜日

退屈を感じる頃


ここのところ、単調な毎日を送っている。

これといって変わり映えのしない毎日が退屈に見えてくる。

それはポルトガルの生活に日々慣れていく証拠でもある。

高校の頃、入院先で出会った御爺さんは「普通に暮らしていくことは本当は難しいことなんだよ。」と自分の人生を振り返っていた。

単調な毎日。

そういう時期を大切に生きているかどうか。。。



2007年10月3日水曜日

ひとやすみ


2007年10月2日火曜日

雨 は 季節


ポルトガルに雨の季節が来ようとしている。
ここ数日、リスボンの雲行きは怪しく、毎日折りたたみの傘を持ち歩いている。
一時的な豪雨に見舞われることも少なくない。
と言っても長々と雨が降り続くことはなく、通り雨といったふうだ。

心持、最近事務所の雰囲気も少し神妙だ。
僕はこの天気のせいだと思っている。


そろそろ、この曇った空の隙間に青い空と、陽が差し込んでくる頃じゃなかろうか。。。





2007年10月1日月曜日

言葉は壁



 お昼時、事務所の友達と出かけるときはいくつかの注意が必要だ。
まず、かなり体調のいいこと。面子を確かめる事。六人席の場合、必ず四隅のどこかに座る事。
これらはどれを見落としてもいけない最重要事項といえる。
ポルトガルに限らず、母国語と呼ばれるものを持つ国で現地の人が集まって昼食をとる場合、よほどの事がない限り、英語で会話をするという事はありえない。

 何が好きでわざわざ(母国語より)話しづらい言葉を使って、楽しい昼食を過ごさなければいけないのか。

 言語の基礎的な知識がない状態で現地の会話に混ざるのは必要以上に体力を使う。特に普段の会話のスピードに加えて、話題も結構すぐ変わったりするのについていくのは、ほとんど不可能に近い。

 加えて、上に書いた最重要事項三番目の六人席、真ん中に座ってしまった場合、完璧な無視状態に陥ることもしばしばある。(だからといって黙っているわけでもないんだが。。。)もちろん、端に座ったからといって英語で話してくれるような事はないが、そっと会話を聞いています。といった態度でいられるのでいくらか楽だ。


 学生時代にビラ配りのアルバイトをした時、上手く配るコツは「無視される事に慣れる」ことだった。

 私は決まりきった売り文句を艶のない声でもってビラを差し出す。サラリーマン帰宅時間の駅前で、彼らはビラを配る私を無視して通り過ぎてゆく。私は透明だったのかもしれない。声色、ビラを差し出すタイミング、視線、私は懸命にビラを配ってみた。しかし、そのどれも効果を上げることはできず、無視されるという体験に単純にショックを受けた。私はそんなアルバイトになれた頃、同時に無視されることにも慣れたのだと思った。そして、人間が駄目になったような気がしたものだ。


 そして今、「無視されることに慣れる」のではなく、「無視させない」知恵、を私は身につけたのだった。

2007年9月30日日曜日

小さな発見を大きく語れ


 最近、このブログも滞り気味でいけない。9月は合計で13、8月は10の記事。8月は休みということもあって少ないのは分かるが、9月は2日に一つのペース。それに加えて、最近はほとんど写真も撮っていない。

そんな背景に仕事の時間が長くなったかといえば、実はそんなこともないので、一体全体どうしてこんなに時間がなくなったのか。

 私は明らかにこちらに来た時と体感速度が違う気がしている。先日、知り合いから「残りの半年はもっと早いかもしれない」、と言われて何だかそんな気がした。


 このブログも「日常の小さな発見を大きく語る」というモットーで始めたが、最近はそういう小さな発見もなかなかない。やはり写真か。。。

そんなことを考えている私は、いつしか追われる生活になってしまった?


いつからだろう・・・

2007年9月28日金曜日

異国の地で即答



 「何でそんなに働くの?」という素朴な質問も、異国の地で聞かれれば心の底の方まで響いていく。

 そして、単純な質問ほど不意に投げかけられると即答できぬものだ。
 私はこの質問を一瞬、深刻に受け止めた。だが、その場では適当に自分の置かれている状況から「責任を持ってやってるだけだ」と答えた。まぁ彼はそれで納得した様子だったのだが、後になってこの質問を何度か思い返してみる。


 私は何故こんなに働くのか。不思議なことにこういった質問を日本で聞かれても、(時に厭味に聞こえたりするので)あんまり真剣に考えない気がする。


 因みに私はこの質問の答えは「自分のため」というのが一般的な気がした。


 日本で真剣に働く人にこの質問を投げかければこういった類の答えが返ってきて、それはあたかも「当然」といった雰囲気さえあるような気がする。


 そして、日本人の多くが、仕事に対してこういった意識を持っているような気がして、少し誇らしくも思うのだった。

2007年9月25日火曜日

旅の記録 プラハの景色


 モルダウ川に架かるカレル橋はヨーロッパに現存している最古の石橋。1357年より43年かけて1400年に完成。(それ以前に架かっていたものは1342年の洪水のため破損)
 黒い石でできた重厚な橋には左右合わせて30体の聖人像が据えられている。ところどころ聖人像のつけているアクセサリーが金色に修理されており、古びた像と対照的でやけに目に付いた。
 写真向かい岸から数えて8番目にある、聖ヤン・ネポムツキー像の台座部分のレリーフに触ると幸運がおとずれる、と伝えられている。現地情報をほとんど持たなかったため、訳も分からぬまま行列に並び、一応触っておいた。   
 もし、この伝えを事前に知っていたら、おとずれた幸運にもう少し敏感だったかもしれない。



 プラハの景色は丘陵と川と上手く調和しているところがリスボンと似ている。リスボンはプラハに比べるとかなり起伏の差が激しいが、プラハは丘陵部頂上に建つ大聖堂が単純な地形を際立たせている。 人が住む以上、自然を破壊しなければいけないわけだが、こういった街並みは地形を生かしてもいると思う。ものすごく単純なんだが。。。

 今夏訪ねたプラハも随分前のことのような気がするが、まだほんの一月しか経っていない。
いくつか前の記事に簡単な旅行記を掲載したが、実際は投稿したい写真が沢山あるので、小出しに時々投稿してみます。

2007年9月24日月曜日

ポルトガルはまだ夏?

土曜日の朝早く、ポルトガル南部、アルガルヴ地方の小都市タヴィラへ行って来た。
南部のそれもスペイン国境近くに位置するこの街はバスで4時間かかる「ポルトガルの端っこ」と言えるだろう。市街地と浜辺の少し変わった地形関係からポルトガルでも有名なビーチの一つらしい。
 名所と言っても、乱暴に開発されていないこの街は、シーズンをずらしてきたためかひっそりとしていたが、そこに静かに住んでいる人たちの気配が心地よくもあった。
 街の中心を流れるジラオン川の河口に点在する島が浜辺となっている。ビーチのある島まではボートで20分程度かけて川を下ることになる。その間、湿地帯となった周辺にはヨットやボートが係留されたり、こじんまりとしたかわいらしい家がポツリと建っていたりする。

 9月もそろそろ終わろうというこの時期、タヴィラのビーチはまだ夏だった。恐る恐る入った海は水温が高く、海から上がっても、程よい日差しがサッと体を乾かしてくれ、遠くまで伸びている浜辺には、この週末を同じように楽しむ人々でにぎわっていた。きれいなグラデーションが遠浅の海を彩り、水平線の深い青が空との境をくっきりと浮かび上がらせていた。

 週末を利用した小旅行としてはかなり質の高いものだったと思う。

 仕事が始まって思いがけず忙しい日々に追われ、「やっと休める!」と思った週末だった。

 家でゆっくりするか、出先でゆっくりするか。この問題はついつい前者が当たり前と思ってしまいがちだが、意外と出先でのんびりするのも悪くない。
「休み疲れ」よりは心地よく疲れたことで自然に働き始められる週始めになった。

 

2007年9月19日水曜日

順応性落し物


 先週から今週にかけて、かなり忙しい仕事始めとなった。
不意打ちを食らったようで、未だ本調子に戻らない。


 こちらに来て早くも5ヶ月が過ぎた。
内約一月は夏休みだったが、それなりに仕事の事も分かってきたかと思うと、やられる。
油断大敵と言ったところか。。。


 特に今回やっていた仕事内容は予定の期日が二転三転する、働く方としては精神的にも結構きついものだった。
 
 振り返ってみると、今まで、「いついつまでにこれをやってくれ」というような展開はほとんどなく、
個人的に「少し遅いかな?」と思っても、大事に至るようなことはなかった。
尤も、最初にいつまでか尋ねたとしても、「まぁ、早いに越したことないけど、気楽にやってくれよ。」
といった感じだった。
(もちろん、設計競技などで期日があるものについてはきちんと予定が組まれる。)


 今回も勝手にそういう気持ちでやっていた仕事が、突如「来週までに終わらせてくれ」と言ってきた。
こちらも慣れたもので「無理なものは無理。」といった感じだったが、「じゃ土日も来てくれ」と言ってくる。正直うんざりしていたが、素直に従った。この仕事は夏休み前から連続するもので、個人的にも早く終わらせて、違うことをしたくなっていた。

 私はこの5ヶ月、仕事にも生活にもそれほど激しく苦しまずにやってきた。
それを単純に「適当に順応」したんだろうぐらいに考えていた。だが、実際はその順応の過程で何か大事な落し物もしてしまったのではないか?

 そんなことを、ふと考えてみる。

2007年9月14日金曜日

突然の雨の中


今週の雨。
ひどかった。
今週から働き始めた私は何故か週初めから残業。
深夜遅くまで、働く羽目に。
20:00以降まで働く場合、夕飯代は事務所が持ってくれる。

 私は当然、この制度にあやかって、他の所員たちが一旦、家に戻り始める頃、私も近所の喫茶店へ。

  ところが、注文し終わる頃、外はパラリパラリと電灯の下に白い筋が浮かび上がっている。
「そういや、なんか空気が湿ってたな。。。」
まぁすぐ止むだろうと思ったが最後、次第に雨脚は強まり、雷までなる始末。
「おいおい、どうすんだよー 傘もって来てないのに。。。」
そう思いながらもビールとコーヒーで1時間粘る。
「やばい。そろそろあいつら戻ってきてるかも。車だしなぁ。」
この時点で、残業はあきらめ、家に帰ることも真剣に考えはじめた。

 でも、このまま家に帰ってもずぶ濡れ、仕事進まず、よりはタクシー、仕事優先、で事務所に戻る。

ところが、事務所には、

 ほとんど人がいない!


 そうか。そうだったね。
 この不測の事態を彼らはきっとあきらめているに違いない。
「こんな雨じゃ、外なんか出られないなぁ。。。」
なーんて感じで、無理をしない。この雨も、そして長くなってしまう残業も、仕様がない。
少なくとも、私の想像の中のポルトガル人たちはそうだ。

 私は自分のとった行動が「どこか日本人だったかな。」と苦笑。

 午前00:30、街灯の下、湿った地面は薄く乾き始めている。


2007年9月12日水曜日

こうして僕は


8:00  起床

8:30 本当に目が覚めるのはここだ。事務所に向かわねば

9:10 事務所近くのカフェで朝食

9:30 事務所到着と作業の確認(因みにこの時間帯で26人中4番目の出勤)

13:00 昼食

14:00 インターネット、メールの確認、時事確認(日本のことも忘れないように。。。)

14:15 作業開始

18:00 作業中断、近場のカフェで小休止

18:30 作業開始

20:00 この時点で、事務所にはほとんど人がいない。。。

21:07 事務所施錠(なぜ僕が一番最後なんだ?) 帰途
  
21:20 自宅近くの果物屋で材料の購入、今日の夕飯は○○で決まり

21:36 料理開始

21:58 夕飯

22:30 シャワー

23:00 ネット

1:00 就寝 おやすみなさい。