2007年12月31日月曜日

年末の出来事


ポルトガル(というより欧州)は日本に比べると、はるかに新年よりクリスマスが重要で、そうした気配は街の雰囲気からもよくわかった。

日本の静かな年始はこちらではどうやらクリスマスが相当するようで、家族や友達とゆっくり過ごすものらしい。僕自身も事務所で何度もクリスマスは家(日本)に帰るのかと尋ねられた。

というのも、ポルトガルの外から来ている人たちはこれを機に、クリスマス3,4日前から年明け一週間ほど地元に帰る。それも用意周到なことに、2ヶ月も前にボスに了解を得ていた。

一方、僕はこうした連中のどさくさに紛れて、スペインに遊びに行くつもりだった。
ところが、クリスマスを三週間ほど前にひかえた頃、上司に休暇の打診をそれとなくしてみると、「だめだ。」と即答される。

僕は一瞬戸惑った。そこへ彼はポルトガルはクリスマスとイヴ、場合によっては26日も休むけど、他は休まない。一日は一応休むけどそれ以降は普通に働くんだよ。夏じゃないんだよ。と諭してきた。

僕はやむなく、予定を変更せざるを得ない。
出発の日程を2日遅らせて、帰国の日程も2日早め、この調整で12月28日と新年の2日、3日の合計3日間を休むことにした。
数日後、インターンのスイス人学生がボスにクリスマスの休暇をほんの数日前にもらったと言う。しかも、ボスの方から3週間を提案してきたらしい。因みに彼女は学生で休暇の要求そのものに立場上、恐る恐るといった感じだった。(ヨーロッパでは建築科の単位の一つとして事務所で実務のインターンを行う場合がある。)彼女のそういう態度を見かねての計らいだったのかもしれない。。。

僕は聞く相手を間違ったかと思う一方、あの会話はひょっとして冗談だったのかもと思い出してみる。
だが、予約してしまった航空券の日時はもはや変わらないのだった。


2007年12月29日土曜日

修道院前の広場はだだっぴろい

 地球の歩き方06‘-07‘に掲載されているアルコバサの写真はいつのものだろう。

 修道院前には植木などの植栽が施され、よく見ると駐車場のような使われ方もしている。

 この広場はポルトガルの歴史において重要な4月25日にちなんで、4月25日広場と名づけられている。(この日は1974年4月25日、軍部がクーデターを起こし、ポルトガルが独裁者サラザールの手から離れ新政府が誕生した記念すべき日。因みにこの事件は「リスボンの春」と呼ばれ、この日に由来するものがポルトガルにはいろいろとある。)

 ところが、現在では写真のように何もない、だだっ広い土の広場に直線上に配された石の歩道が数本通っている。 ところが、この地上に描かれた数本の線だけでは、どうも心もとない。正に拠り所がない状態といえる。実際、ここにはほとんど人が集まらず、広場周りのカフェから巨大な修道院の全景を眺めるばかりだ。(そうした意図がもしこの広場の改修にあるならそれはそれですごいことだけど。。。)以前の広場の様子は確かに駐車された車などで雑然としており、見ようによっては汚らしいかもしれない。しかし、そうした広場に面した広場の様子はそれ程悪いものでもない気がする。

 広場をつくったつもりがそこには大きな断絶ができてしまう、この皮肉の方が僕にはよっぽど頂けない。

2007年12月28日金曜日

アルコバサを訪ねて




先日、訪れたポルトガル3都市の中でも、僕はこのアルコバサに来るのが本来の目的だった。というのも今、僕が関わっている計画の敷地がこの街にあり、その敷地見学を兼ねた小旅行だった。だが、この街がリスボンからそれ程遠くなかったこと、加えて近郊に他の世界遺産や小都市があったので、それらを一緒に見て回ってきた、というわけだ。


因みにこの日最初に訪れた小都市バターリャはこのアルコバサとバスで40分とかからない。後でよく見ると、「地球の歩き方」にもこの二都市は合わせて見ることを勧めていた。





ポルトガルの都市は、日本の都市に比べてかなり小さいと思う。東京に住んでいたせいか、街の大きさを実感として持つことがあまりなかったけれど、ポルトガルでは都市という一まとまりがごくごく身近に意識できる。都市間について言えば、その間ほとんど何もない荒野が延々続き、4,50分して、遠方にポツリと都市らしき集合体が見える。といった感じだ。そうした都市のほとんどは緩やかな丘陵地帯に自然発生的につくられ、建物が建っても自然の形状はそのまま残っている。





バターリャ同様、アルコバサにも世界遺産に登録された修道院がある。写真は修道院内部、沈黙の回廊より修道院入り口側を見ている。午前中に見たバターリャの修道院の回廊が、装飾過多で繊細な柱が軽快に中庭を取り囲む一方で、この回廊は堅固な壁がそこから見える中庭の景色を遮ってどこか質素で地味な印象を受けた。


この修道院の目玉は厨房の巨大な煙突。最盛期には約1000人もの修道士たちが生活していたというこの修道院。10メートル以上はあろうかという煙突が厨房の中心に位置している。石の調理台が心なしか今も生臭い気がした。

2007年12月27日木曜日

回廊に射す朝日


朝9:00に開館するバターリャの修道院は、入り口をくぐると巨大な礼拝堂にたっぷりと朝の冷たい空気が満ちていた。心なしか天井まで鮮やかに見える、空気が澄んでいるせいだろうか。。。実際、観光地とはいえ、開館と同時に来館する人などほとんどおらず、人の気配の無さが余計に礼拝堂の静かな佇まいを際立たせていた。


礼拝堂正面の祭壇に向けてゆっくりと歩き出すと、靴の音が鈍く足を伝わってくる。ダウンジャケットのポケットから手を出すと、手足の感覚が無くなるほど体が冷えていることに気が付いた。そしてどこか神妙な気持ちになっている自分にも気が付いた。冷たくなった自分の体が生きている実感を教えてくれるせいだろうか。
否、建築のなせる業か。。。
西洋の教会は何故かいつも妙に落ち着いた自分と向き合せてくれる。この巨大さ。高さか。。。


僕はぱち、ぱちっとデジカメで写真を撮ると、礼拝堂と隣接する回廊へ。係りのおばさんにチケットを渡すと古ぼけた大きな扉を開けてくれた。朝のまだ日の差し込まない中庭と回廊は冷えた空気がじっと溜まっているように冷たい。僕はまだ陽の差し込まぬこの中庭を足早に回っていく。僕はこの寒さが中庭から入り込む外気だと気付くと、繊細な装飾を施された柱に囲まれた中庭が、今、自分のいる回廊と開放的に繋がっていることに初めて気が付いた。僕は中庭の背景で目一杯に立ちはだかる礼拝堂が静かに迫ってきた。

2007年12月26日水曜日

午前9時のバターリャ



 二週間ほど前に訪れたポルトガル地方都市、バターリャ。以前書いたように、この旅は朝早くからバスに乗るなど、かなり気合の入った旅だった。一日で3都市を回ったがその一番最初に訪れたのがこの街だった。


この日朝早く起きて、バスに乗ったものの、バターリャに到着したのは午前9時。僕は前日に夜遅くまで遊び歩いたせいもあって、バスの中ではウトウトとまどろんでいた。気が付くと、バスの時計は8:45を過ぎている。僕は一瞬、寝過ごしたかと眠気が一気に吹き飛んだ。すると、窓の向こう側に突然、巨大な建造物が現れる。それはまるで、荒野に建つ巨大な建造物といった風で、僕の目を釘付けにするも、すぐ障害物に遮られて、見えない。僕は夢見心地で、もう一度見たいという激しい好奇心に駆られた。


 すると、やはり見間違いではなかった。一見、何もない平野に巨大な修道院が建っている。僕は逸る気持ちを抑えきれず、興奮気味にバスを降りると、外気が痛い程冷たかった。週末、土曜日だったこともあって、その時間帯はほぼ全ての店舗が閉まっていた。僕は仕方なくバス停から修道院へと直行。


 バスから見たあの異様な様子は、バターリャの街の小ささとこの修道院の大きさ、存在感の差異じゃないだろうか。見るものを圧倒するというけれど、これもそういった体験の一つに違いない。朝の到来を告げる細い光が建物に黄色く反射してまぶしい。街の端に位置する修道院の入り口は北側にあり、正面は前面日陰になっていた。日の差す広場から修道院の落とした広い影に入るとヒヤリと寒さが増した。僕は建物正面を埋め尽くす装飾を前に黒く開いた小さな扉をくぐってその中へと入ったのだった。



写真は世界遺産のバターリャ修道院の一角、未完の礼拝堂。


2007年12月23日日曜日

ホームパーティーに学ぶ


リスボン生活も8ヶ月が過ぎた。


この12月は自分の誕生日に加えて、クリスマスというビッグイベントも相まって、家で開く簡易的なパーティー、いわゆるホームパーティーがかなりの回数あった。


僕はこのホームパーティーを主催するというのが重荷になる事が多い。


というのも、事前にいろいろと用意しておいたり、何時くらいに始めて、何時くらいに終わるとか、そういう考える必要のないことをいつまでも云々考えてしまうからだ。


こうした心配の背景には自分が主催者として人を呼んでおきながら、会の進行が良くないと失礼かな、とか考えることが多い。パーティーなんて人を招待して、自分なりにもてなせば、後は人がどう感じるかは自由なはずだが、人を招待するからには楽しんで帰ってほしいという思いがどうしても強くなってしまう。


そのくせ、会が始まるとそういう心配を忘れて自分も楽しめるので、まぁ得な性格といえばそれまでだが。。。




こうした心配は「なるようになる」という言葉のとおり、実際は何とでもなってしまう。


ある程度、気心の知れた人たちが一つの場所に集まれば、もし何か起こったとしても、みんなそれなりに知恵を出し合って乗り切れるもの。

この一連のパーティーでそんなことを思いながらも、
未だ、なかなか「成り行き」に身を任せられないでいるんだけれども。。。

2007年12月21日金曜日

市場に行こう。



以前、寿司の話をしたけれど、


ポルトガル、リスボンはテージョ川という巨大な川に面しており、新鮮な魚介類が手軽に手に入るため、意外と寿司を作るのも簡単だった。朝から家の近くの市場へ。艶を帯びたカラフルな野菜が場内を彩っている。まだ、原形をとどめた肉の生々しい姿と鼻を突くような魚の臭みがひやりと肌に心地よい。僕は一通り魚の卸売り場を見て回った後、慣れないポルトガル語で魚を注文し、その魚の名前を何度か口ずさんでみた。


2007年12月20日木曜日

ハッピーバースデープロジェクト



僕の研修先の事務所では誕生日のお祝いを自分で企画するという慣例がある。
僕はそんなことがあるとは露知らず、ついうっかりと自分の誕生日を事務所の友達に明かしてしまった。(まっ、隠すようなことでもないですが。。。)
そのおかげで、自分で開く誕生日パーティーという慣れないイベントをやる羽目に。
僕はこのイベントをつい最近まで、かなり人任せに考えていた。
というのも、誕生日が同日のポルトガル人の友人が事務所にいたからで、「郷に入りては郷に従え」ということに加え、他力本願でもってこのイベントをサラリと乗り切るつもりだった。
ところが、この2,3週間ほど前に突然彼は誕生日当日は外国に休暇で行くと言い出した。
僕は突然の告白に、少し裏切りさえ感じたが、どうしようもない。
彼に何故こんな時期に外国に行くの?なんて意味のない質問をしてみる。
その質問は半分、「誕生日はどうするんだよ。(俺たちの)」という抗議でもあった。
ところが、彼は「いやーそういうの結構苦手なんだよね。何か恥ずかしいしさぁ。」と一言。
「・・・」
「俺だって苦手だよ。だからこそ二人で力を合わせるのかと思ってたよ。俺は。勝手に。」
「(笑)」
僕は持ち合わせの日本製品を駆使して、自分の誕生日に臨むことになった。
因みに、このアイデアは他で使う予定もあった。
何より、「この贈り物はボスがいなければ。。。」という思いもあった。
というのも僕の誕生日にボスは事務所に居らず、そんなタイミングの悪さと、当日、リスボンは久々の雨かと思いきや中心地は断続的に続く雨に見舞われ、昼先に買出しに出なければいけなかった僕の気分にもまさに暗雲が立ち込めた。
だが、そんな気苦労と気合の入った26歳の誕生日は僕にとって、忘れることのできぬ大きな思い出にもなった。
そんな誕生日だった。

2007年12月17日月曜日

毎日クリスマス



クリスマスをヨーロッパで初めて過ごす僕にとって、この一大イベントの盛り上がりは想像以上のものだ。(僕が街の中心に住んでいるせいもある。)日本でもクリスマスといえば、冬の冷たい空気に街中のイルミネーションが鮮やかに浮かぶ。リスボンでも早々と一月前から街路に大型の電飾が登場し、ジングルベルや一般家庭のベランダにもサンタクロースの人形が飾られたり、日に日にクリスマスを待ち望む雰囲気が街中につくられていく。

そうした街の演出と相まって、週末にクリスマス関係のイベントへ出かけていく人たち、仕事場でもクリスマスディナーなるものが企画された。上の写真はその夕食の様子。

夕食の目玉イベントはプレゼントの交換で、僕は予めこういった時のために用意していた日本製品で乗りきった。因みにプレゼントの相手はくじ引きで自分だけが知っており、相手はもちろん、僕自身も一体誰からプレゼントを貰えるのかは一切の謎となっている。こういう時に外国人が自国の物を持ってると本当に楽だと思った。一応、日本の物ということでかなりのオリジナリティを発揮できる。
 
プレゼントで一体どのくらいのものを持ってくるものなのか分からない僕にとって、プレゼント交換が始まるまで、内心、不安もあった。


夕飯は午前2時頃まで続き、家路につく頃、人気のない真夜中の繁華街には電飾がもう燈っていないのだった。

それはまるで、「今日」のクリスマスが終わってしまったかのようだった。

2007年12月16日日曜日

この週末


この週末、土曜日を利用して、リスボン近郊の小都市を回ってきた。

金曜日の夜、遅くまで飲み歩いたせいで朝6時に起きて高速バスに乗るまでがきつかったが、バスに乗ったら安眠、バターリャ、レイリア、アルコバサと三都市を見て回って来られた。
当初の計画ではレイリアに行く予定はなかったが、最初に着いたバターリャが想像以上に小さな町だったこと、交通が不便だったこともあって急遽予定を変更した。
と言っても、実際のところ、計画らしい計画はなく僻地でどうしようもなくなり、偶々来たバスに飛び乗った、と言ったところか。。。


時に大胆さは旅に思わぬ展開を与えてくれる。
今回はそうした大胆さが、功を奏したようだ。


今回訪ねた3都市はいづれも見所となる建物を街の中心に一つずつ持っている。そのうち2つ、バターリャとアルコバサは世界遺産に指定されており、その周囲の景観もかなり整ったものだった。小さな街に大きな見所が映える一方、たった4時間半の時間つぶしもままならない。僕はそんな世界遺産に少し不満を持った。だが、そうした不満はまだまだポルトガルが発展していける可能性も示唆している。(そう思うのは少し傲慢か。。。)

バターリャで世界遺産の建物を見終わった後、次のバスの時間帯を調べて、僕は途方にくれた。
そして、偶々来たバスに飛び乗ったのだった。



2007年12月14日金曜日

明日の選択肢



はいくつありますか?
この三つ等間隔に並んだ扉の前で、一つだけ開けるとしたら一体どれを開けるだろう?
そして、どうしてその扉を選んだのか。
その先に何があるかなんて、分かりゃしないのに。
僕は今、明日朝早く起きて、旅に出るか、一週間の疲れを癒そうか迷っている。
そして、暫く前までここリスボンにもう少し長く滞在しようか、どうしようか迷ってもいた。
さらに、この扉の向こう側が、実はたった一つの道になっていることも知らなかったのだった。

2007年12月13日木曜日

アヴェイロの橋




ポルトガルで建物を見ていると、写真集やインターネットで見たときよりもずっと良いと思うことがある。実際に現地に行ってみて初めて、建物の良さは分かるという単純な原則をポルトガルは改めて教えてくれる。(とはいっても良いものばかりじゃないけど。)

上の写真はJoão Luís Carrilho da Graça(カヒーリョ)による歩道橋。

僕は最初にこの橋をカヒーリョの作品集で見たとき、ほとんど素通りに近かったと思う。一瞬、背景の自然と対照的に写された幾何学の構図は印象に残ったものの、パッと見て、不規則な三角形の連続が構造体になっているとわかると、そんなに気にも留めずに次のページをめくったのではなかったか。(写真集には海抜が上がって河がもう少し満たされているときのものだったと思う。)

しかし、実際に行って見ると、これが意外に忘れられない。以前にも書いたが、アヴェイロはポルトガルの有名な建築家たちがキャンパス内の建物を設計しており、建物の見所はかなりある。この橋はその中でも一、二を争う印象を僕の中に残した。僕はこの橋を事前に知っていただけに、深く印象に残ったことが意外だった。

今、振り返ってみると、やはり写真に撮りきれない空気があること。(写真集などの)写真はどうしても中心としての被写体を持つが、実際に行って見るといろいろなもの(気温とか自分の気分とかも含まれる。)との関係の中で物(建物)が見えること。そして、情報過多な現代に生きる自分が体験的であることより観念的になっていたこと。

まっ 大した事じゃないけど。

2007年12月12日水曜日

霧後晴後霧



朝方の冷え込みで目を覚まし、布団の中のぬくもりで二度寝する。

うとうとと30分もすれば、寒さが眠気に勝ってさっさと動き出さないと体が冷えるばかりだ。

12月のこの時期になっても、家には暖房器具がなく、大量の夏用の掛け布団を重ねて寒さを耐え忍ぶことになりそうだ。

とは言っても、東京の寒さに比べれば全然たいしたことがない気がするのは気のせいか。。。




いやいや、そんなことはない。

まだカイロも使わず、十分過ごせる陽気だ。

何と言っても、この寒さがひどいのは朝方と夜に限られている。


というわけで今回は写真を二枚使ってご覧に入れましょう。







このとおり。 お昼過ぎには雲ひとつない空が広がっている。
寒さに気をとられて過剰な防寒をすると、逆に昼の日差しに汗ばんだ体が冷えて寒い。

そんなリスボンは今日もいつものように晴れている。

2007年12月11日火曜日

ある夜の出来事



最近、リスボンも急に冷え込んできた。
去年の丁度、今日か昨日にリスボン入りした気がする。その時はダウンジャケットを着ていたから結構寒かった。比較的暖かいと思われた今年の冬も、どうやら例年と変わらないのかもしれない。
まぁ、もっとも、ポルトガルに永住するわけじゃないからそんな事は関係ないんだが。

僕の今住んでいる家は旧市街の真ん中あたり5階建ての建物の最上階。
夜、洗濯物を入れるため窓際の小さなベランダに出ると、遠くの方まで空が見渡せる。
僕は大抵、週末にまとめて洗濯するがそういう暇のない週は平日の朝に洗濯機を回し、お昼に洗濯物を乾しに家に戻り、夜に取り込む。

ある夜、ベランダの洗濯物を取り込みながら、ふと夜空を見上げる。
すると、夜の空に浮かぶ無数の星が、目に見える速さで動いている。
僕は目の前に見える星が隣の家の屋根の向こう側に消えていく不思議な現実に戸惑った。。。

地球が動いているっ!という宇宙の法則を垣間見たような気がして、一瞬にして過ぎ去っていった星の軌跡がいつまでも頭の中に残った。
そして、起こるはずのない出来事は過ぎていく時間の早さだけを実感させてくれたのだった。





気がつくと握りしめた洋服が冷たい。
湿った空気が河に向かって吹くと、いつの間にか夜の空には薄い雲が近づいてきていた。

2007年12月10日月曜日

アヴェイロの給水塔



アヴェイロの給水塔。
 先日、ポルトへ行く途中にアヴェイロという街に立ち寄った。
この街につくられた大学はポルトガルの有名建築家たちによるデザインから成っている。
建物個々の見所もさることながら、大学全体の配置計画や素材の規制は強烈な秩序を生んでいた。
そんな中でここでは、大学内の端っこに位置する給水塔を紹介してみたい。
ポルトガルを代表する建築家、Alvaro Siza Vieira(シザ)による設計。


 給水塔、ポンプとか聞いても今ひとつピンと来ないが、25メートルはあろうか。板状に打たれたコンクリート壁の直方体の一辺を支え、その直方体中心から少しずれて、円筒形の階段室(内部は梯子)が全体を支えている。

 一見すると、なんて事のない工業建設の名もないデザインのようだが、一緒に行ったポルトガル人の友人は終始、興奮気味だった。だが、その端で僕はと言えば、単純な幾何形体の組み合わせにどこか不思議な印象を受けながらもほとんど無反応に近かった。彫刻的といえば聞こえはいいけれど、何か物足りなさを感じたし、何よりポルトガルにおけるシザの存在の大きさを、一緒に行った友人の反応から感じた。シザの作品に対して手放しで絶賛するような迂闊さがあるような気さえした。
 だがその一方で、帰った後も消えない強烈な印象が今も僕に残っている。

2007年12月8日土曜日

ポルトに降る霧雨


 昨日、土曜日にポルトまで車で行ってきた。
事務所の友達の運転する車に便乗してのポルト行きはこれが二度目だ。前回は6月頃だったのに、なんか今回の方が暖かく感じるくらいリスボンはカラッと晴れていた。

ところが、ポルトは写真のような雨。。。
しかも霧雨で、視界は悪く、空気中をヒラリと舞う雨は傘の中に簡単に入ってきた。
どうせ濡れまいと侮ると、いつの間にか体温が下がる程濡れている。

ポルトの街並みを濃い霧雨が包む。

※前回のポルト旅行記はこちら。
ポルトへ 07 ,06,17
歩け 07 ,06,17
ドウロ河のほとり 07 ,06,17
ポルトの歴史地区 07 ,06,17
酒 07,06,17

2007年12月6日木曜日

インディペンデンス・デイ


みたく、目の前に飛来したUFO!
写真は先日スペイン南部の都市、マラガに行く途中に撮影したもので、Francisco Aires Mateusによる高速道路の料金所。
写真中央にみえる滑走路のような緑色に点灯するラインはETC専用をあらわしている。
機能重視でありきたりな形になりがちな高速道路の料金所にしては珍しくデザインされている。
デザインを頼む方もかなり珍しい気がするけど。
遠方に見え始めてから、近づいて通り過ぎるまでの見え方がなかなか面白く、
自分が走っているのに、向こうから向かって来るようにも見える。。。
07,11,09

2007年12月5日水曜日

街はまだ眠っている。

  朝起きると、いつも射し込んでいるはずの太陽の気配はなく、窓の外には白黒の街が見える。
 
 窓を開けると、消音を解除したステレオのように朝の喧騒が聞こえてくる。

 ビーッ!というタクシーの警笛とデコボコとした道路をゴロゴロと音を立てて車が走っていく。

 寝ぼけながら支度をして、5階から1階へと降りていく。

 木造の階段に響く足音は朝の眠気を咎めるように僕を起こす。


 だが、入り口の扉を開けると、まるでまだ眠っているかのように街は霧に覆われていた。

2007年12月4日火曜日

12月の霧


 いよいよ12月。今年も残すところ1ヶ月となった。
 リスボンの12月は霧で始まった。
 夏にも一度見たことがあったけど、リスボンを流れる巨大なテージョ川からもくもくとあがる霧。
 一見して分かりづらいかもしれないが、上の写真は目の前に広がるはずの川が霧でほとんど見えなくなっている。普段は川面からの照り返しが強くてまぶしいけれど、この日は川に架かった霧が薄く発光する雲のようだった。
 外に出るとさすがに空気が肌に冷たい今日この頃。

2007年12月1日土曜日

ビルバオ・グッゲンハイム美術館


 フランク・O・ゲーリーという建築家をご存知だろうか?

 上の写真はスペイン・鉄鋼の街、ビルバオに建設されたグッゲンハイム美術館。これがそのゲーリーの作品だ。一見して何が何だか分らない程、グニャリと歪んでいる。 この建物は今や彼の代名詞ともなっている。水平、垂直の建物を見慣れた私たちにとって、造形的な彼の一連の作品は、そのほとんどが彫刻的と言っていいくらい自由な形をしている。


 鉄鋼の街・ビルバオは至る所に金属で出来たパブリックアートが置いてある。街の中心部は格子状にきれいに区分けされて、心なしか歩道が広い。雲一つない空の下、川沿いの道をグッゲンハイム美術館に向かって歩いた。川沿いの道は対岸と程よい距離をとって、川の流れに沿って遠くまで見渡すことが出来る。 きつくカーブした川沿いの道に、金属の鈍い照り返しと異様な建物の形が見るものを圧倒するかのようにゆっくりと私の前に現れた。

 写真は美術館の入り口部分。ゲーリーはよく「魚」をモチーフにするが、この入り口部分は波打つ壁面のせいか、まるで海の中に潜って行くような気分だ。入り口を入ると巨大な吹き抜け。波打った壁面に混じってガラスを支える構造体はかなり無骨だったが、全体の大きさから言えば決して醜いものではない。むしろ、どこか力強い印象さえあった。


 3層吹き抜けの波打つような壁面とエレベーターシャフトを取り巻く曲面状に配置されたガラスが、ダイナミックなエントランスホールとなっている。視界の至る所に現れる人影は何だか見ていて目が回るようでもあった。
 各展示室はかなり大きめのものだが、異様な外観がそのまま内側に現れる部分はところどころにしかない。巨大な展示室はまるで、そこに置かれる、あるいは行われる作品を寛容に受け入れるかのようで、作品の大きさによっては展示が困難なのではないかといえるほど大きい。


 しかし、展示室の多くは、決して展示作品とにらみあうような関係ではなく、静かで穏やかなものではなかっただろうか。むしろ、展示作品から発せられるエネルギーを存分に演出していたと思う。そのせいか、展示を見終わった後、私はクタクタに疲れていた。

07.07.06