2008年11月25日火曜日

片道1時間半の通学路




日本に帰ってきてからずっと実家暮らしが続いているわけですが、

何がきついって通学が一番きついです。

これまで、大学近くに下宿してたから、ほとんど苦にならなかったけど、

さすがに片道1時間半は1週間もすると疲労が溜まりますね。


リスボンにいた頃の通勤時間は30分くらいだったけど、


天気がすこぶる良かったし、トラムに乗っても大体の場合が座れて、朝の軽い運動みたいな感覚で通勤してたなぁと今更ながら思います。



あれは本当に良い暮らしだったんだなと思い出だしながら、この毎日の通学時間を楽しめないかと、いろいろ思案するんですが、なかなか思いつかない今日この頃です。。。

2008年11月18日火曜日

只今室内15℃


昨日(11/11)、あまりの寒さに暖房をつけた。いやつけてしまった。
毎年のことだが、暖房をつける時というのは勇気がいる。
この程度の寒さで暖房をつけてしまったら、この冬を乗り切れるだろうか。。。
という一抹の不安に駆られるからだ。
散々考慮した挙句、結局エアコンのスイッチを押してしまうのは余程寒いか、
予め周囲の様子を伺ってからというわけだ。

余談だが、ポルトガルの冬も日本ほどでないが寒かった。しかし、私の下宿先には暖房器具はなく、寒くても寝具の量が増えるだけだった。(質じゃないよ。量ね。)

兎にも角にも、昨日は寒かった。つまり余程の寒さであった。
しかし、困ったのは今日だ。

一度、暖房の暖かさを知ってしまった日には、なかなかその誘惑に勝てない。
果たして、今日暖房をつけずにいられるだろうか。
そして、明日も。。。

2008年11月8日土曜日

人を轢いた話



先日、大阪で起きたひき逃げ事件の容疑者が捕まった。
朝方、大阪のとある道路で突然信号が変わると同時に走り出した車が人を轢いたまま、
3キロもの距離を走行した挙句の逃走劇だった。
しかも、容疑者は飲酒、無面、執行猶予と無法三昧の渦中にあっての出来事だった。

以前、オランダでデルフトからアムステルダムへと向かう列車で、牧場に寝そべる牛とのどかな景色を眺めていた時、
突然、電車が宙に浮くような感覚と石を砕くような音が続くと、過ぎ行く退屈な景色がいつの間にか止まっている事に気付いた。車内はしばらく電車が走っていた時と変わらず落ち着いていたが、次第に電車が止まってることに気が付いたのか、ざわめいてきた。僕は友人たちと他愛もない話に花を咲かせていたが、電車が止まった理由がすぐには分からず、「置石だろ」「いや、牛だろ。」「ありうる。」などとさっきの音について空想したりした。

だが、それは自殺だった。

僕らは何ともいえない嫌な気分になった。自分たちのくだらない想像を反省したが、それ以上に「俺も人を轢いてしまった。」というような自殺の片棒を担がされた気分だった。一瞬宙に浮いたあの感覚は人を轢いた感覚であり、あの石のような音は骨を砕く音だったのか。罪悪感が僕たちの会話を減らした。

大阪の事件は発生時間帯が、人通りの少ない朝方の出来事だったこともあり、目撃証言が少なかったらしい。

そのため、事件に使われたとみられる黒いワゴンを捉えた映像がテレビで流されていた。信号や街灯が粗い画面に点り、交差点をその車が一瞬にして走り去っていく。それは事件そのものを捉えたもので、微かだが人を轢きずっているのが分かり、一度分かると、異様な現実感を持つ映像だった。そして、視聴者がその映像を捉えられるように何度もスローモーションで流されるのだった。

私はその映像を見て、何故かオランダで乗り合わせた事件のことを思い出していた。
そして、あの罪悪感がものの数時間もすると薄くなってしまったかのように笑ったりしていた。
だが、人を轢いた感覚だけは罪悪感として今も残っている。
容疑者は事件後、仕事を辞め、事件現場周辺で新しい仕事を何事もなかったかのように始めていたらしい。
人を轢いた感覚を、彼は果たして思い出すことができるだろうか。

ショック



先日、いつものようにパソコンの電源をOn。
vai〇(社名は伏せます)のロゴの後、ウィンドウズのロゴが表示されると画面に1㎜程度のピンク色の線があることに気付く。
イントロ部分が終わって、デスクトップのスクリーンにもその線は残った。
僕は一張羅にシミを見つけたような嫌な気分になると、すぐさま再起動を行う。
すると、

!

線が二つにっ!!

しかも、最初の一本目とは比べ物にもならぬ3センチもの白い線が現れる。

!!!

即、サポセン(サポートセンターの蔑称)に電話。
手短に用件だけ言いたい気持ちとは逆に、電話の向こうでは機械音声がのらりくらりと対応してくる。
4の5の言ってないで早くしろよっ!という気持ちは機械には一切通じず、オペレーターと話すまで4回。

こちらの苛立ちとは裏腹に、オペレーターの冷静さがやけに鼻につく。
展開は案の定、修理及び不具合の検査ということで、パソコンを郵送。

後日、電話がかかってくると。

「お客様、・・・修理代金・・・大変高額となっております。」
私はその金額を聞いて、文字通り耳を疑う。
「10万円っ!!」

「はぁっ!?(そんなの新しいの買えってことだろっ! たかが液晶だろっ!)」

散々、自分の非による破損ではないことを訴えるも悲しいかな、返ってくるのは「当方としましては・・・」「申し訳ございませんが・・・」という敬語ばかり。
私は怒りに任せて
「では、お聞きしますが、修理を依頼したとして、修理部分には一体どのくらいの保証期間が付くのですか?」

すると
「3ヶ月でございます。
馬鹿にすんじゃねーよ。

挙句の果てに
「検査費用3500円でございます。」



私は切れた。そしてここで小さく恨みを晴らしてみたりしている。









2008年11月6日木曜日

‘ちょきんっ’と切るように




先日、5億円の詐欺容疑で逮捕された小室哲哉。


当時一世を風靡した名プロデューサーの落ちぶれように、彼のCDを一枚も持っていない身でありながら、ショックを受けた。全盛期に20億円という高額所得を得ていたというから、先日新聞で公表された政治家の資産額、麻生首相4.5億円を4.5兆円だったけ?などと取り違えてしまうほどだった。


新聞各種メディアによれば、巨額の損失を抱えながらも、その生活は一般的な生活からは程遠かったようだ。


が、しかし、この一連の報道を受けての音楽業界の対応の速さとその決断は、随分冷ややかなものではないだろうか。当時、ミリオンセラーを連発し、オリコンチャート上位5位を独占するなど、ブームが過ぎたとはいえ一時代を担った稀代のプロデューサーではなかったか。店頭からのCD撤収、音楽配信の停止など、そんくらい売ってやれば?と言いたくもなる。


当時、一緒になって甘い蜜を吸ったであろう音楽業界の「なんだよ、とばっちりはごめんだよっ」という態度になんか薄情さえ感じるのは僕だけか。。。

2008年11月3日月曜日

秋口


東京では秋の気配を感じる今日この頃。


一年前のリスボン生活と比べると、季節の変わり目を日本では強く感じている。


単純に落葉樹とか多いせいかな。


夜の帰り道、空気の冷たさに何となく厳しさを感じるのは気のせいだろうか。。。


2008年7月15日火曜日

めがね


最近、眼鏡を新調した。
僕は裸眼で1.7程度まで見える。
cマークで言うと下から2,3段目まで見え、歳の割りにかなり眼が良いという部類らしい。
一方で片目が斜視でもあり、よく見え過ぎることもあって眼精疲労がひどかった。

ポルトガルにいる間、この斜視が進行したような気がしていて先日まで眼科に通院していた。

生活に支障がないまでも、鏡に映る度に僕の右目は他所を向いており、時にはいくらがんばっても鏡の向こうの自分と見つめ合うことができない。


以前にも書いたが、斜視による疲労がピークを迎えると、見ているものが10㎝から20㎝遠ざかる。この体験は吐き気を伴う酔いに似ており、幼少時は不吉な出来事のようで怖かった。読書を勧められて、「読むと字が遠くに行ってしまうから嫌いです」と断ると「意味の分からぬことを言って、格好をつけるな」と叱られる事がよくあった。


その他にも、鏡の前で右目がスーッと外側へ離れていくと「あぁ、俺は左目で右目を見ているんだな」などと下らない事にひどく感心したりしたこともある。


聞くところによると、人間の目が最も良い時期は12歳から15歳程度で、人間の老化が最も早く始まる部位でもあるらしい。そのため、眼鏡などで年齢に応じて、眼の周囲の筋肉を補助するようなケアが必要になる。焦点を合わせる為の眼の周りの筋肉が衰えるからだ。


まぁその結果、まんまと眼鏡を買わされてしまった、と言うことなのだけれど。。。




2008年7月14日月曜日

最終回


あぁ、CHANGEの最終回を見た。
というより、見てしまった。(しまった!)

この連ドラは月九と呼ばれる、フジテレビの看板枠として有名らしい。
今回はキムタク扮する朝倉総理という連ドラでは異例の政治ものだった。
放映開始を他とずらしたりといろいろなプロモーションも行っていたらしい。

僕は長くテレビのない生活をしていたこともあって、ドラマなどここ数年ほとんど見たことがなく、
普段の会話でもテレビで流行の芸人ネタとか振られても全くの無反応ということが多々あった。

そんな生活も最近では一応テレビが眼に入る生活に変わって、
時々ぼんやりとテレビを見てしまうことが増えた。
見ているというほど真剣ではなく、「見えている」といったところか。。。

CHANGEの最終回は朝倉総理が組閣問題で窮地に立たされ、総理として辞任を決意するところで終わる。ところが、辞任に加えて内閣を解散するとも言う。この内閣解散宣言が20分近い総理の独演となって見所なのだ。多分、この「解散」という発想がドラマならではなのであり、「さすが朝倉総理!」ということなっている。

だが、よく考えるまでもなく野党は何をしているんだろう?
だいたい、野党の影が薄すぎだろっ
「解散」なんて組閣で不祥事が起これば野党がすぐ飛びつきそうなもんなのに。


総理は独演の中で、自分の政治に関する無関心をはじめ、総理の職に就くことで政治に関わる大変さや情熱などを語る。多分、その姿は多くの視聴者を対象としたそこらにいる普通の人の代弁でもあると思う。だが、この解散という結末に「すげえぇ」なーんて思ってる人が沢山いるとしたら、それはそれで大変なことじゃなかろうか。。。



2008年7月4日金曜日

雷の夜


今朝方、雷の音で目を覚ます。
外はまだ暗く、どうやら外は雨が降っているようだ。
遠くから次第に地面を叩く雨の音が近づいてくる。
梅雨のまとわりつくような空気に気が付くと、
まどろんだ体に反して意識の奥のほうが冴えてきた。

「ゴロッ」と空が砕けるように雷が鳴ると、
何だか不安な気持ちになって
部屋の中に人影を探してみる。
隣の部屋に聞き耳を立ててみる。
次の瞬間、ドアが開く、開く、開く。。。


部屋はシンッと静まり返ったまま
僕は息を呑んでその時を待っていた。
「殺られるっ!」という不安だった。

ここ数ヶ月に起きた殺人。

僕は僕と何の関係もない人に殺られたりするんだろうか。
ぼんやり、自分の不安の正体を探って
漠然とした社会に対する不安を抱え、今日もまた眠る。


2008年6月16日月曜日

お見舞い 日本





最近、日本では信じられないような事件や天災が起こっている。

僕が日本に帰ってきて3ヶ月、その間にも随分ショッキングな事件が起きた。

次々に起きる事件がもはや他人事ではない気がするのは、

それだけ衝撃的だからなのか、

それとも、僕が社会に目を向けられる歳になっただけなのか。。。

2008年6月2日月曜日

つ ゆ

始まりました。
今日から関東地方は入梅です。
東京のジトッと重い空気が好きだったんだな、
と思う今日この頃。
街には雨が近づく時の独特な匂いが立ち込めている。
明日は、きっと雨。

2008年5月30日金曜日

つぶやきの中の本音



オタクより先に市民権を得たかった。

漫画家より先に市民権を得たかった。

日本のアーティスト。

最近、そんな言葉がどうも忘れられない。


           (この間のお喋りより)


2008年5月27日火曜日

まんが 考

先日、日本の漫画界のスーパースター、井上雄彦の展覧会「さいごの漫画展」が上野の森美術館で始まった。展覧会初日、美術館前には長蛇の列ができていた。何を隠そう、僕もこの展覧会に朝一に行ってみた一人だったが、列のあまりの長さに日を改めることにしてしまった。たった一年とはいえ、日本を離れてみると、住み慣れた街にいつの間にか取り残されたような錯覚を覚えることがある。俗に言う「浦島太郎」というやつだろうか。僕の場合、この浦島気分を一番感じるのは漫画だった。

日本ほど漫画が浸透した社会は他にないのではないかと思う。それくらい書店には漫画が並んでいるし、何よりその種類に驚かされる。実際、日本の有名漫画がポルトガル語訳されているものもあった。コミックは外国ではあまり価値がないと思われているとよく言われるが、それは本当だと思う。実際、僕が同年代のポルトガル人に英訳の漫画を紹介したが、一切取り合ってくれなかった。英語だったからだろうか。

それは置いておくとして、最近、この一年間に進んだ物語を読むべく、数冊の漫画を買った。その中でも井上雄彦の「バガボンド」はすごいと思った。この作品は吉川英治の「宮本武蔵」が原作となっている。漫画家は一つの作品が長く続く場合、物語が進む中で、作家自身も成長していくわけだ。特にキャラクターに本当に命が吹き込まれていくように最初の頃と終盤では顔つきが変わってきたりする。

この作品はそうした画力もさることながら、キャラクターの感情表現やストーリーの展開もすさまじい。よく、映画を見て泣くというけど、読んでいてそういう感動に近いものを感じる。(泣いてはいませんけど。)

特に「バガボンド」の場合、時代劇なわけだから、もう400年近く前の出来事をよくこんなに細かく描けるものだと思う。造られた世界ではあるけれど、すごい力でもって引き込んでくれる。特にこの漫画ですごいのは武士とか日本の精神みたいな部分をすごく丁寧に描いている部分だ。現代に描かれた宮本武蔵。その世界の中に誰もが自分自身を投影してしまう。

そんな気分にさせてくれる漫画はやっぱり、もう、美術じゃないかと思う。

2008年5月22日木曜日

垣根


 先日、東京芸大では「垣根の内と外」と題した座談会があった。大学の独立後、この大学がどういう方向へ向かって行くのかということを教授陣が話し合うというものだった。タイトルにある「垣根」とは芸大の中の各科(建築科とか工芸科とか油画科とか。)同士の敷居を指している。また芸大という特殊な大学と社会という意味での垣根でもある。特殊と書いたのは、この大学が非常に専門的な技術の習得と伝統という意識に守られた閉鎖的な場でもあるからだ。(こうした問題に対して、近年芸大では近隣の町との連携的な活動も行ってもいます。)


 各科内の専門的な授業が忙しいこともあるのか、学生は普段、他の科との交流が少ない。(芸大に限ったことではなく、他の大学でもおそらく同じだと思う。)そのせいか、壇上に各科の教授がずらりと並んでいる光景は何とも新鮮なものだった。普段、他の科の教授同士が話しているところなどほとんど見たことないだけに。

 座談会なので、議論というほど激しくないものの、時折、科の存続の意義に触れる様な内容もあって4時間近い座談会はあっという間に終わった。科同士の複雑な関係を考えれば、教授たちも言いたい放題というわけにもいかなかっただろう。だが、会の終わりには不思議な充実感が漂っていた。多分、こうした各科同士の話し合いが芸大始まって以来、初めての試みだったからではないか。

 肝心の「垣根」については、いろいろな意見があった。教育上絶対に科という範囲は必要だ。とか「先生方みんな芸大を愛していますね」なんてまとめられもした。そんな中で、外部の有識者が言った「垣根なんて最初からなく、あるとすれば、自分でつくってしまうものではないか」という発言に僕は共感できた。日本の美術の膨大な集積と人を持つ芸大が、そうした財産を、この時代にどうやって横断的に利用していくのかはとにかく難しい問題として残った。
 座談会中、座長から振られた話を自分の在籍する科に限って話している様子は、やはりどこか閉鎖的に見えた。そうしたやり取りの中で他科のやっていることに対する無関心さがところどころに滲んでくる様な気がしたのは気のせいだろうか。「内はこれをやっています」、「内はこうなんです」ということ話が熱くなってくるほど、他科のやっていることは門外漢だから分かりませんし(あんまり興味もないなぁ)という雰囲気はどこかしらけている。そうした無関心さが言ってみれば僕たちの持つ「垣根」と「その外」なのではないかな。そう思った。

2008年5月11日日曜日

五月


帰国後、一月が経った。このブログもポルトガルから帰って来てしまった今、どうしたものかと考えていたところです。ポルトガルでの生活はこのブログを見る限り、やっぱり楽しい一年だったんだな、と改めて思う一方、帰って来てまだ一ヶ月ほどしか経っていないことに驚いたりもする。


今後は身の回りで起きたことや考えたことなど、ポツリポツリと書き留めていこうかなと思っています。


2008年3月24日月曜日

近所


ここ数日、近所を歩いて回る。

意外と近所にも知らない場所があるものだ。


リスボンの旧市街が小さいということもあるが、歩いて回れる手軽さが何ともいえず良い。土地の人が何年もかけてゆっくりじっくり見えてくるのと違って、足早にいろいろと回るといろんな見落としがあるものだ。

近所のことで意外なことも多い。
リスボンの旧市街は古い建物を再利用しながらできている。
おかげで街並みは古く、少しずつ現代化されていくが、その中は意外なほど広かったり、狭かったりと変化に富んでいる。

外から中の様子をうかがい知ることができない。それは言ってみれば、一寸先はドラマチックといった感じだろうか。


というのも僕は最近まで、家から歩いて2分のところに病院があることも、家のほぼ目の前に手軽でおいしいカフェがあることも知らなかったのだった。

2008年3月22日土曜日

西の果て



へ行って来た。

ロカ岬と呼ばれる最西端の地。

気を抜くと吹き飛ばされる程の強風だった。

その風のためか、海は薄く緑がかり
激しい波が崖下の岩肌を叩きつけていた。

観光客でにぎわう展望台の端で東の果て、日本を思うふ。

2008年3月19日水曜日

自然の中に神様


2,3日前にポルトガルの景色について書いてみた。僕は旅行の行く先々でそうした景色に出くわすわりに、なかなか飽きが来ない。僕はぼんやりと遠くまで景色を見ながら、ふと日本の自然を思い出してみる。

考えてみれば、日本にも数多くの自然が残っている。東京でさえ、奥多摩など周縁部に行けばかなりの自然を満喫できる。しかし、そうした日本の自然とポルトガルの自然の印象は随分と違っている。ポルトガルの自然はコルクの木に代表されるようにどこか太っていて小さい樹と少し禿げかけた緑がどこか愛らしくアンバランスで牧歌的なものである一方、日本の自然は杉の樹などの針葉樹林のように背が高く、豊かな葉をまとうかと思えば、葉を失いながらも冬の寒さに耐えるなど、四季の移ろいによっての様々な変化を見せてくれる。こうした日本の自然の印象はどこか険しいものに僕には映る。
しかし、その険しさは時に僕たちの想像力を強く刺激してきたとも思う。
例えるなら、ポルトガルの景色を見ていても、そこに神様とか感じることはない。
日々の変化に乏しい自然には神妙な気分よりもどこか安心感の方が強いに違いない。

2008年3月16日日曜日

ヴィラ・ヒアル


先日訪れたVila Real(ヴィラ・ヒアル)では、友人のPが街を案内してくれる。彼はリスボンで見るポルトガル人と違って、長身の男だった。その風貌と対照的に話し振りが柔らかく気さくな人柄は不思議な落ち着きも放っていた。

彼に案内されること数時間、土地の人を伴わなければ行けないような僻地へと向かう。

たどり着いた場所は本当に行き止まりの断崖絶壁の上だった。見渡す限りが岩肌となだらかな丘陵がどこまでも続いていく。万に一つここで行き倒れたら、助からないだろう。だが、不思議とそこまで道路が敷かれてあった。


彼が言うにはそこは先史時代くらいからの自然が残っているという。僕は雄大な自然に圧倒された。それは人間の叡智ではなくて、単純な自然そのものだった。気の遠くなるような時間をふと感じて、「景色っていつまで見てても飽きないものなのだな」と思ったりした。


皮肉なことは、デジカメでこの景色を撮ろうと思いついても、フィルターに残る画像はどうも目の前の景色と違うようだった。

僕は思いつくままに彼に質問してみる。

「何故、先史時代の自然を調査したりしないの?」

すると、

「俺たちとお前たちの社会は違うんだ。」


「もし、そんな調査をしようと思ってもどこからも援助がないし、政府だって協力しちゃくれない。」


「この国はこの国のやり方とペースでやっていくのさ。」



僕はそれを聞いて、この自然がいつまでも正体を明かされることなく、ひっそりとだが雄大にいつまでもあり続けるような気がした。



人との出会いと同じようにある場所を訪れることもまた、出会いなんだと思った。



2008年3月15日土曜日

直線の時計観


僕は自然でいうと石や岩が何億年もかけてしわくちゃになった褶曲や幾層にも積み重なった地層が好きだ。もちろん、樹の生い茂る林や森も好きだが、いくつも同じような形が繰り返される森や林には無限の迷宮みたいなものを感じて気が遠くなる。褶曲や地層は時間の過ぎていった順番に積み重なった直線的な時間軸を感じる一方、植物の一年を通した移り変わりには時計のような円形的な時間軸を感じる。というわけで、僕はどちらかといえば、大地の生成から今この時までを感じられる気がする褶曲や地層が好きだ。
円を描きながら回り続ける時計は人に永遠という錯覚を与えたに違いない。
僕は昔、砂時計の上から下へと流れ落ちる砂が刻一刻と減っていき、次第に薄い渦を巻いたかと思うと、パッと下へと消える様に流れ落ちてしまう砂時計が好きだった。

それは今、地球と人類が直面している出来事とも似ているんじゃなかろうか。

2008年3月14日金曜日

ロード・ムービー



ポルトガル南部へと日帰りで出かける。

リスボンも日中かなりの暖かさだが、アレンテージョと呼ばれるポルトガル中部から南部にかけての気候は既に夏を連想させるものだった。
日中の暑い陽射しを避けて、影を見つけて歩く。

まだ、影の中は心地よいというよりは肌寒かったけれど、日向に比べると随分と温度差があった。
リスボンに向けて鈍行バスで帰ることにする。 ハイウェイを使わず、田舎道をバスに揺られながら帰ってきた。

西の空が赤く夕暮れ始めても、なかなか陽が暮れず、薄く淡い夕日を受けた景色がどこか懐かしかった。

2008年3月13日木曜日

ボウサの集合住宅




今頃になって、という感があるが、ポルトにあるボウサの集合住宅についていくつか書いてみたい。僕はこの一年間のポルトガル生活で3回ほどポルトに行ったが、このうち二回はこのボウサの集合住宅を訪れた。


内部にはもちろん入ることができないが、建物の外周程度の見学者のために、一応アクセスを書いておく。ポルトの地下鉄駅、青線Lapa駅降りて目の前。青線は建築通でなくとも知られる、Casa da Musicaの最寄り駅もあるので、この現代建築と合わせて見ることができる。


この集合住宅の概要を簡単に説明しておく。設計者はAlvaro Siza Vieiraというポルトガルを代表する建築家だ。以前もこのブログでいくつか作品を紹介している。因みにこの建築家はポルトを拠点に活動している。
この計画は低所得者のための集合住宅であり、構想から実現まで30年近くかかっている。というわけで最新作ともいえる。この集合住宅は櫛型に配列されており、櫛の部分が住居で背の部分がコンクリートの壁になっている。


僕はこの建物を二回訪れて、二回とも建物の敷地とその外を分けているコンクリートの壁に興味をもった。去年の6月に訪れた時はかなりの豪雨で敷地内の近道用に開けられた通路や共用部分にかかった屋根を移動しながらも、いつも視線の奥にある壁が気になった。

というのはこのコンクリートの壁によって、居住部分が周囲から守られているような印象を受けるたからだ。櫛型に配列された住居は互いに向き合っているが、その間には10メートルほどの広場をはさんでいる。居住者は自宅を出て、この広場を通って外出するようになっている。さらに、壁によって広場は囲われた形になっており、広場部分にはられた芝生は居住者の物といった雰囲気になっている。

壁によって、閉じられたこの広場に入ってくる者は周囲の建物からの「目」を少なからず感じることだろう。


僕は不思議な壁の魅力を体感している気がして、壁伝いを歩いてみる。


すると、正面に壁を見ると分からなかったが、壁には端の方に小さな出口が開けてある。まるで、自分の家から出るようにその出口を出ると開放的な広場の空気はそこにはなかった。地上に出た地下鉄とその電線が土手の上に見えるだけだった。車一台ほどが通る、人気のない道路。


僕はそこに屋根があると気付くと、傘をたたみ、鈍く湿ったコンクリートの壁に沿って少しだけ歩いた。巨大な落書きがコンクリートの壁に描かれていた。

僕はその落書きを見て、何故かこの壁はなくてはならない物の様な気がした。


傘を差し、人気のない道路へと数歩出てみる。まったくの壁だ。なるほど、この巨大な壁にも、いくつか開口があり、通過できるというわけか。今度は来た道と違うところから敷地内に入ると白と紅色と芝生の緑がきついコントラストをつくっている。


もう一度、壁を振り返ると壁の高さは住居の高さに合わせてある事に気付いた。
おそらくは居住環境にできるだけ差を与えたくないというシザの配慮ではないだろうか。

2008年3月12日水曜日

廃墟の時間



時の止まった廃墟。
その時間を補うのは人間の想像だったりする。

モンテモール・オ・ノヴォの廃墟より

2008年3月11日火曜日

モンテモール・オ・ノヴォ


先月の末に訪ねて来た大学の友人にポルトガルを案内する。彼の滞在最終日は僕もまだ行った事のない土地へ行くことになった。


Montemol・o・Novo(モンテモール・オ・ノヴォ)と呼ばれるリスボンから東へ150キロ程行った所にある町だ。バスに揺られること1時間半、街の中心にある大きな倉庫のようなバス停に着く。外は思ったより少し寒かった。倉庫のようなバス停がつくる大きな影のせいだった。バス停を出ると、日差しが強く、ポルトガルの他の地方都市に比べると、道路幅が広かった。それは古い街並みを残しつつも現代の車社会に少し適応しているといった様子だった。


この街も他のポルトガルの都市と同じように丘陵地の頂上付近に城壁を回し、その裾野に街が展開する構成になっている。


向かうは古い城壁。


途中、道路ど真ん中にだらしなく寝そべる犬を発見。その不用意さが如何にもポルトガルらしくのどかな場面だった。


城壁をくぐると、ほこりっぽい土の道ときれいな緑色に生えそろった草むらが、そよ風に揺られていた。振り返ると、今くぐった城壁が目の前に立ちはだかっており、その大きさとは対照的な小ぶりな階段が脇に添えられていた。やや荒々しい石が雑然と積み上げれたその階段を上ると、城壁腰に裾野に広がる街が見渡せた。その景色はどこまでも続いていく平原に時折、盛り上がった丘陵地があり、見ていると気が遠くなっていく。



城壁は意外に長く、舗装されていない歩行部分は気をつけながら歩かなければ、足をくじいたりしそうなほどだった。遠方に見えていた城壁の端の望楼は途中、道が崩落しており行くことができず、日本ならば必ず手摺があるはずの場所にも、ここではあえて手が加えられてはいない。


僕は足元に気を使いながらも、裾野に広がる街とその背景の広大な平原にどこを見ていいのか戸惑いながら、そよ風に揺られている草むらの方に目をやってみた。それまで、足元を気遣うあまり、その方に注意がいっていなかった。


草むらの向こう側には廃墟となった塔と崩落した壁が小さく見える。城壁の入り口をくぐった時はゆるく盛り上がった丘の張りがこの廃墟を隠していたのだ。強い日差しを受けた草むらは鮮やかに、そして眩しいほど照り返してくる。廃墟はその向こう側に不思議な存在感でもって、建っている。


まるでありふれた楽園のイメージだった。

僕は今すぐその場所に行きたい気持ちを抑えつつ、来た城壁をゆっくり見て入り口まで戻ると、草むらの向こうにその廃墟が見えるまで、その丘を小走りに駆け上がった。


2008年3月9日日曜日

ひなびた景色ポルトガル



ポルトガルの僻地を訪れる。ポルトガルの良さはなんと言っても、天候の良さと景色ではないかと思う。ポルトガルにはまだ自然がかなり沢山残っており、リスボンからバスで20分もすれば、見渡す限り緩やかな平野がどこまでも続いていく。
時折、高速道路からは牧畜用の羊や馬といった動物の姿も見ることができる。そういう極めて平和な景色に見飽きて、睡魔が襲ってくる頃、遠方の丘の上に小ぢんまりとした町、あるいは村が見えてきたりする。


ポルトガルはかつて、スペインやイスラムからの侵略に備え、町を軍事上の拠点として利用するために丘陵状の地形を好んだ。晴れていれば、かなりの距離を見渡すことができる丘陵部頂上に城壁を作り、その裾野に町が等高線上に配列される。ひょっとすると、昔はこの城壁の上からの眺めも、清清しさに溢れたものではなく、もっと不安と緊張の強い場所だったのかもしれない。しかし、かつて戦略上の理由から生まれた多くの町が今では、絶好の観光スポットとなっている。


こうした自然の静寂とのどかな景色を前に、思わずため息を漏らし、人は無言で見とれてしまうばかり。。。

2008年3月8日土曜日

ポルトガルで3月



日本に帰るまでの約一月、ポルトガル国内の旅行を使用かと検討中。


そんな検討の横目に、旅行は既に始まっている。ポルトガルで知り合った人たちと国内を回ってみる。ポルトガルは日本にほとんど紹介されていないので、まだまだ観光的に未開拓な土地であり、現地での情報だけが頼りだ。


日本のガイドブックに載っていないような場所、例えばレストランとかカフェとか、大半はガイドブックに紹介されていないようなところばかり。

加えて、リスボン市内の改修工事を行っていた場所も昨年末から公開されたりしている。昨年4月に訪れた際は閉まっていた場所だ。その当時は僕がこの地を去るまでに公開されるかどうか分からないと言われた程、公開の延期に告ぐ延期を繰り返していた。上の写真は昨年末に改修工事を終えた、リスボンの中心の駅舎Rossio
約一年間の事務所勤めを終えた今、この3月は贅沢にポルトガルの生活を楽しみたいと思う。今日この頃。。。


2008年3月3日月曜日

斜視の独り言


「母さん!僕、本を読んでいると、突然文字が遠ざかったんだよ!今まで20センチくらいのところにあった文字が15センチくらい僕から離れていったの。 」

僕は子供の頃、この経験をよく、した。
特に活字が羅列する小説などを読んでいる時に限って、こうしたことが起こり、集中力が高まって文字の世界へ没頭し始めた頃、突然字図らが僕から遠ざかっていく。僕は何か良くない事の前触れのような気がして怖くなると、本を閉じた。

僕は自分の右目が斜視だと知って、鏡の前に立つ。僕らは鏡の前で互いに睨み合いながらも、彼の左目はゆっくりと外へと、離れていってしまう。
斜視であることに自覚的になった頃、子供の頃の経験に自分なりの解答を一応、見出した。

最近も時々起こるこの体験は、何かに、特に読書が中心だが、集中する時に起こる。

のめり込む一歩手前かのめり込んだ一歩先で、不意に自分の行為を考え直してみる、そんな事だと思う。子供の頃の僕はそのまま読書を止めたが、今ではそのまま読み続けることもある。

リスボンの行き慣れたカフェで、浅く腰掛けた椅子から背後に広がる景色を眺めてみる。
逆さまに見たリスボンの見慣れた景色が今まで見たこともないような場所に見えて、そのまま写真に撮った。
あの時、多分、僕の右目はどこかを泳いでいたに違いない。

2008年3月2日日曜日

向こう側



行きたい場所がある。
行きたい、と思わせるような場所。

それは不思議な予感を与えてくれる場所だ。
そして、その予感を裏切らない。


2008年3月1日土曜日

人生数学



 大学生活がちょうど折り返し地点を迎えた頃、私の友人は親からの仕送りが減り、深刻な生活難を「引き算の暮らしはつらい」と評していた。私はその話を自分のことのように聞きながら、では一体何を足せばそんな現実が明るくなるかを考えてみる。そして地道な足し算よりも華やかな掛け算へと目移りした結果、「夢」を掛ける(賭ける)事を思いつく。「人生」を「夢」に掛けるというわけだ。
最近、たまたま友人の話の中に「ライフワーク」という言葉が出てきた。

これが結構新鮮だった。

人生を夢に掛けるぞ!という大袈裟な意気込みと違って、「ライフワーク」という言葉にはどこか地味だけど長く気楽に続けていくといった感じがある。
夢を実現するためには人生くらい賭けなければいけないと言われた時代もあったと思う。

しかし、人生程の大きな数を「夢」に掛けなくとも、生活くらいの小さな数、退屈なありふれた生活に「ライフワーク」の積み重ね(つまり足し算)で大きな数を実感する事もできる事に気がついた。

それは人生をある程度長くみられるようになったということでもある。
こう思ったのは、多分、働いたからじゃないか。。。
「ライフワーク」という言葉はそんな風に響いた。
スローペース、スローライフ。
マイペース、マイライフ。


2008年2月29日金曜日

ユートピアからの脱出



私は長い間、ユートピアというものを現実に真剣に考えたことがなかった。それは単純に嬉しい、楽しい、ある種の「楽園」といったイメージでしかなかった。(日本語にするとパラダイスに近かったようだ。)そのため、実際にユートピアを定義づけようとした人たちがいたことを知った時、かなり驚いた。

ユートピアは人間から考える機会を奪っていく完全な管理社会なのだが、そこは人間が物事を決定していく負担を極力減らしていった結果、人は時間と規則の中でただただ繰り返される毎日を安心して過ごしていけるというものだ。


しかし、「安心とは何なのか?」という根本的な問いかけに対して、「一切の不安を取り除くこと」という単純な回答は果たして有効なのか?不安を失った安心なんてあるだろうか?

ポルトガルでの生活は日本での暮らしに比べれば、煩雑な雑事に追われる事も少なくない。それは不便や無駄といったマイナス要素なのだが、慣れればそれ程苦にならないことも多い。その一方で時間短縮の余地がまだまだあるものもある。


不便や無駄を取り除くことで得た便利さや合理性は、時に人に必要な何かをも、奪ってしまってはいないだろうか。

不便や無駄のレッテルを貼って捨てたものを、違う視点でもって見直す時期は近い。


2008年2月27日水曜日


そろそろ、本格的に日本に帰る準備が必要になってきた。
でも、周囲にそうしたことをなかなか言い出せずにいた。

この居心地の良さを背景に後半年いれば、後一年いれば、
そういう気持ちでもって接したいことは山ほどある。
否、山ほどできた。

言葉とか歴史とか、訪れたい場所とか。。。
こうした気持ちがこの地に来る前より大きいことは確実だ。

しかし、だからと言って、ここに残りたいと思うのは
勢いと楽しさに任せた自分自身に対する無責任でもある。

だから、3月25日、日本に帰ります。

2008年2月20日水曜日

蜒輔・譏ィ蟷エ縺ョ4譛医↓


蜒輔・譏ィ蟷エ縺ョ4譛医↓
事務所で文字化けしたメールを見せられて、「日本語じゃないかと思うが分かるか?」
と聞かれたことがある。
当然分からない。
「お前はポルトガルがどんな形をしているか知っている?」という簡単な質問に正確な図でもって答えてやる。「じゃぁ、お前は日本の形を知ってるの?」とペンを渡す。

すると、困った挙句にポルトガルにどこか似た形の図を描いてよこした。彼らは悪びれる様子もなく、わははと高笑い。僕は苦笑い。
(日本が4つの島でできてることくらい知っとけよ。)
僕はその時、少しムッとした。


事務所の張り紙に冗談で日本語を書き足してみる。すると、思わずシネシュ(中国)とつぶやいたりされる。
僕も多くの海外生活者同様、自身の土地や文化に対する知識の薄さを思い知ってきた。

そして、僕たちがあまりこれまで発信せずに来た現実にも直面したりする。

大袈裟だけど、僕は外国で暮らしてみて日本のいろんな良さや欠点が見えるようになったと思う。そして、これまでも、これからも変わらない、自分が日本人だということにこれからは、もっと意識的になるんだと思う。

「世界の中の日本という国から来ましたよ」という世界の国々との関係の中で日本を位置づけているか、あるいは単純に「地図で言うとここです。」といった知識としての日本を知っている程度なのかは大きな、大きな違いだと思うようにもなった。

経験という、肉体を持たないただの知識に、どうやって肉体を与えていくか、ぼんやり考えてみる。想像力、あるいは創造力じゃないかと思った。でも、そんな「そうぞう力」には、やっぱり知識が必要なんだ、とも思った。




2008年2月19日火曜日

僕は日本人



僕は昨年の4月にポルトガルに来た時、
一切日本に関するものを持ってこなかった。
 
しかし、一年と経たぬ今、箸や醤油を使って食事をするようになり、
日本の雑誌などを読んでいる。
 
こうした自分の変化を見る限り、
自分が日本人であることを思わないわけにはいかない。
 
そして、ここまで来なければ、自分が日本人であることを、
これ程まで意識することもなかったのかと思うと
少し反省したい気持ちにもなるのだった。

2008年2月8日金曜日

時間切れ。


将棋の長考にも制限時間がある。

僕たちの命にも限りがある。

今見てる夕日ももうすぐ暮れる。

そして、このリスボンでの生活もまた。。。

万物が有限だと知って、人は初めて前向きになれるのかもしれない。



2008年2月5日火曜日

サグラダ・ファミリア教会


去年の暮れに訪れたバルセロナの話を忘れてしまう前に書きとめておこう。


街の象徴とも言えるサグラダ・ファミリア教会。19世紀から20世紀にかけてバルセロナを中心に活動したアントニ・ガウディの作品だ。

バルセロナには、この教会以外にも彼の作品がある。そのどれもが一種異様な形態でもって、言葉にできないような不思議な魅力に溢れている。

中でも、このサグラダ・ファミリア教会には圧倒されてしまった。

設計者のガウディの死後、1世紀以上経った今、なお完成しない壮大さがすごい。


長くても4年、5年という時間の中で建物が出来上がる現代にあって、いつ終わるとも知れない中世の教会堂建設を間近に見ているようだった。実際、姿形も中世を思わせる。

今なお受け継がれているガウディの偉大な業績は世界遺産としてバルセロナの重要な観光資源にもなっている。そのため、建設現場に入るのに入場料を取られるのが、最初いささか腑に落ちなかったが、内部に入ると教会の建設過程が見えると同時に、長い年月を肌で感じることができた。当然のことながら、僕が今まで見てきた教会は既に出来上がったものであり、さらに教会として長く使われてきたものだった。
その点、この建物は教会として使われる前に見世物として使われている。

人間の利用してきた長い年月が沁み込んだ古い教会堂に比べると、サグラダ・ファミリアは全体の中で新しい部分と古い部分がすぐ分かる。さらには、材質も工法も建設当初とはどうも違うように見えた。この建物が1882年から造られ始めたことと、現代の科学技術の水準を考えると、どこか完成を先延ばししているようにも見えてくる。
しかし、現代の科学でもって可能となる「速度」は、中世の、いつ終わるとも知れない「永遠」というロマンを奪ってしまった。そんな現代にあって、この教会の存在はどこか時代遅れでもあり、私たちが失いかけている何かを教えてもくれるのではないだろうか。


永遠の未完成、これ即ち完成。

2008年2月4日月曜日

待てど暮らせど


路面電車を待つ人だかり。

来ない来ないといらつくよりも歩き始めた方が早く目的地に着けることもある。

しかし、僕たちはなかなかそうした決断ができないものだ。
日々の生活に突如として現れる不測の事態を前に、日々使い慣れた方法に固執してしまいがちだ。

一つの固定観念に囚われてしまう。



そして、往々にしてそうした思い込みは自分の視野を狭くするものでもある。

そう知って、今日は待たずに歩いてみた。


見慣れた景色も、日々違うものだと信じて。

07.12.09

2008年2月3日日曜日

仰げば空

ここ数日、ポルトガルを訪れる人たちの案内に追われていた。
平日、なかなか観光に同行できぬなりにいろいろとリスボンの名所を教えたり、休日は僕なりの観光プランを元にリクエストに答えるように予定を組んだりして楽しんだ。
リスボンでの暮らしがそろそろ終わりを迎えつつある最近、僕はやはり名残惜しいような気持ちになることがある。

曲りなりにも暮らすというのはそういうものか。

日本からやってきた知人は日本の生っぽい空気をまとって、そしてそんな空気をまとったまま帰って行った。僕は彼らの足早な観光に、残り一月足らずのこの生活の早さを見るような気がして、少し寂しく空を見上げてみる。見送りの終わった帰り道で。

2008年2月2日土曜日

一石二鳥を求めて




ある問題甲と乙があるとする。僕に限らず,多くの日本人ならばこうした問題を一挙に解決する一石二鳥案を真剣に考えるのではないかと思う。少なくとも,片方の問題を解決しても、もう片方の問題が悪化するような、解決案は選ばないのではないか。。。



このポルトガル生活で、僕は彼らの雑な仕事やのんびりとした仕事っぷりに文化的な違いを見せつけられた。こうした ことが起きる背景には、彼らの決断の早さとたくましい実行力が挙げられると思う。僕は最初のうち、こうした原因による仕事の乱雑感にひどく疲れることがあった。(一応断っておくが、ポルトガル人が全てがこの話の対象ではない。あくまで、一般的な話であり、もちろん責任ある立場の人は相応の態度で仕事に臨んでいます。)



以下、話を模型制作に限ってします。


僕はなぜ彼らが、実行に移る前にもっと考えないのか。ということに頭を悩ました。自分に回答が見いだせない難題に限って、一瞬彼らは悩んだりするものの、すぐ人に聞いたりして、なるだけ実行することに時間を費やす傾向があると思う。そして、今直面する問題を解決することに因われるあまり、他の問題を忘れており、その結果次なる問題丙が浮上してしまう。そういうことを繰り返しているうちにつくっている模型は汚れていってしまうわけだ。



しかし、今そうした取り組みを遠くから見てみると、そこには 意外と学ぶものが含まれているような気がしてきた。こうした模型制作におけるイタチごっこは終わりがないように見えて、実際はどこで妥協するかによってあっさりと終を迎えられるものなのだ。


では一体どこに僕が注目するかといえば、その実行力と決断力の速さだ。とにかく決断してから実行に移すまでが早い。いくつかある解決案を前にしてどれを 選ぶかという決断もかなり早い。ましてや、人に教わった話なら疑いもせず実行したりする。


この点、上に挙げた日本人の例でいくと、いくつかある解決案を前にしても、なかなか決められない。時に私たちは失敗を恐れるあまり、決めた後もその決断が最善のものであるか疑りながらの実行ということがある。


だが、そうしているうちにも彼らは作り始めている。決断や実行に慎重な理由はいくつかの不確かさ、精度場の問題を前もって察知しているからだと思うものの、見通しのよさが決心を鈍らせるとすればそれは決していいことではないのではないだろうか。




ちなみに、僕が見てきた展開上、制作に失敗した場合、「何故こうなったの?」という問に彼らは素直に「最善と思う方法をとったけど、駄目だったようです。」といった感じか、「あの時よりはよくなった」といった投げやりな展開もありうる。


結果が駄目だった以上、どちらも褒められたものではないが、その後、彼らは残された時間を目一杯時間切れになるまで善処しようとする。しかし、最後に至る前に一度結果が出ていることを考えれば、それは無駄なことではない気がしてしまう。一石で二羽の鳥を落とす方法を考えるか、その時間を沢山の石を拾う時間に当てるのか。。。


2008年1月29日火曜日

アヴェイロの図書館





以前もいくつかアヴェイロにある建物を紹介したが、建築を勉強している人にとってはこの建物が一番の目玉となるのではないだろうか?



アヴェイロの図書館。


以前、紹介した給水塔と同じくAlvaro Siza Vieira(シザ)による設計となっている。
アヴェイロの給水塔 07.12.10

遠巻きにこの建物が見えると友人のポルトガル人はあれが誰の設計か分かるかい?と自慢げに聞いてくる。僕はこの建物がシザによるものだと直感的にわかった。建物を形作るいろいろな要素がそこかしこで「シザらしさ」を醸し出している。

生憎、週末だったため中に入ることができなかったが、友人の話し振りからすると、中もかなり良さそうだ。僕たち一行は渋々、怪しい雲行きの下、外を回ってみることにした。

建物の大きさのわりに壁には窓が少なく、屋根に藤壺のような窓がのっている。帯状に配された白い石が赤いレンガの塊を引き締めている。建物入り口部分は巨大な屋根庇が垂直に垂れており、シザの他の作品にも見られる特徴的なデザインだ。僕たちは閉まったガラス扉の前で暗い内部に目を細めてみたが、普段の様子は想像できない。。。諦めてドアから離れると、途方に暮れた白黒の三人がガラスに映りこんでいた。僕らはしばらくその場で屯して建物の裏手に回ってみる。


すると、今まで見えていた壁とは異なる曲線の壁が、まるで一枚の赤いカーテンのように柔らかい。足元には白い石できた壁が無口に立っている。目の前には緑の芝生がきれいに生えるグラウンドとその向こうに河が広がっている。僕はこの突然現れた一枚の曲面壁にひどく惹きつけられた。何故、この曲面壁が反対側の壁に用いられず、この裏手側とも言える様な方に面しているのか。反対側(ほぼ正面)からこの建物を見た時の赤いレンガの塊と白い石でできた正面玄関の印象を思い出すと、僕はこの不意を突かれた出会いに、何か意図的なものを感じずにはいられないのだった。

2008年1月28日月曜日

哲人の料理~味覚への目覚め




最近、料理をすることが増えた。
それが、言語による壁のせいなのか、故郷を想う、寂しさのためなのか、はたまた金銭的な問題のためなのか。
外国生活は生きる上での最低限の知恵を自然と教えてくれる。

僕は料理というのがすこぶる苦手で、というのも自分がつくったものがものの数分、数十分で自分の胃の中へと消えてしまうのがどうしても耐えられなかった。しかし、仮にも一人暮らしをする身であれば、耐えられないとも言っていられない。そこで、僕はデジタルカメラという手軽な方法でこれらを記録することにしていた。それはまるで、毎日増えていくレストランのメニューのようで、僕の料理意欲を一時的に盛り上げることが多々あった。

ところが最近、そうした僕のマメさも影を潜め、さっさと作って早く食べようというスタイルへと変わってきた。調味料の加減や湯で加減など、いろんな具の選別などを楽しむようになった。こうした背景にはあまり料理のレシピにこだわらなくなった事がある。以前はレシピの指示に割りと忠実であったが故の、不自由さがあった。しかしそうした画一的な料理は実は自分の味覚を一つの正解へと縛るものであり、僕のような素人にとっては、自身の味覚で判断するという機会さえも奪われていたと思う。




しかし今思えば、僕にとっての食事はなんて視覚的なものだったのだろう。

そして、今、視覚的だった僕の食事は味覚的になろうとしているのかも,
しれない。

2008年1月27日日曜日

空に生える木

僕は飛行機と言うのが、どうも苦手でいけない。
特に、滑走路を加速して離陸する瞬間が一番嫌いだ。
そして、窓際の席で翼がたわんで見えるのもどうも心細くなってしまう。
そんな不安を口にすると、決まって「たわんだ方が安全なんだよ。」という。
しかし、それが単なる知識である限り、
空を飛ぶ僕の不安は消えることがないのだ。

2008年1月26日土曜日

夜の通りで思索 詩作 失策


働くことで見える世界がある。
自分の時間って本当にあるんだなと思う。
でもそれに気が付いた時は、もう自分の時間なんてないんだけどね。
いつしか、自分の時間だって自分で作らなきゃいけなくなると知って
10年くらい先を思い浮かべてみる。
今の自分になぞらえて。

2008年1月24日木曜日

一息

思いがけず、忙しい日々が続いた。
今の自分の疲れが、どことなく自分の油断を象徴しているようで反省。
とはいえ、ようやく一段落。
日常へ
只今帰れました。
My sweet home.

2008年1月23日水曜日

12℃


リスボンはここのところ清清しい朝を迎えるようになってきた。
夜の静かな気配の中にも春の匂いが混じっている。
先週末から働きづめの僕にとって、早い朝の訪れは残念な気持ちで一杯になる。
深夜、事務所の扉を開けて帰途につく。
冷たい空気が夜の眠気を覚ますと、もう朝が訪れたような気に
なるばかり。。。

2008年1月22日火曜日

突然忍び寄る 翳


先週の週末から事務所にほとんど缶詰の状態が続いている。
予期せぬ仕事突然頼まれるも断る理由なし。
あぁ 外国人生活。。
哀し。。。

2008年1月17日木曜日

海岸に立つ名もない教会



上の写真はポルトの中心地から北へ車で30分ほど行った所にあった教会。
写真で見るように周りに何もなく、曇った空の下、寂しい雰囲気が滲み出ている。。
こうした建物の在り方がポルトガルには割とある気がする。
何より、一軒だけポツリと建物が建っているこういう景色にそれ程、違和感を覚えない。
それどころか、この景色を引き締めているような感さえある。

僕は自然と程よい関係を持った建物が好きだ。
建物が見えすぎず、景色の中に建物が見える。

葉を見ていては木が見えず、木を見ていては森は見えぬ。
何にも捕われず、見るともなく全体を見る。

一つの強烈なデザインは人目を引くかもしれない。だがそれは森の中の葉に過ぎない。
できるなら、森を想起させるような、一枚の葉でありたい。

2008年1月16日水曜日

クリスマスはそろそろ終りにして

先日、スペインを一緒に旅行した友人を連れて、ポルトへいって来た。彼が一週間ほどリスボンに滞在予定だったので、ポルトガルを少しでもよく知ってもらおうと遠出することにした。といっても、僕は年末年始の休みを使い果たしており、週末を利用した慌しい旅行でもあった。時としてそうしたタイトなスケジュールの方が旅は楽しいが、スペインで疲れが溜まっていたのか、僕はリスボンに戻ってしばらく風邪を引いてしまった。

ポルトは今回で3度目となるポルトは相変わらず霧がかかていて、天気が悪かった。僕はまだポルトガルに来てから一度も晴天のポルトを訪れたことがない。霧のかかった古い街並みは優れた演出だが、さすがに三度目ともなると飽きてきた。しかも、リスボンに比べると寒かった。。。

写真はポルトを代表するトリニダーデ広場。中心に巨大なクリスマスツリーが飾ってある。クリスマスが過ぎて二週間が過ぎても片付けられる気配がないところは、リスボンと変わらないようだ。ちなみにこの巨大なツリーは一昨年までリスボンに設置されており、去年からポルトとリスボンを隔年で往復することになったらしい。

リスボンではこのツリーはそれ程、人気があるわけではないようだったがポルト市民の反応は一体どうだったろう。。。

最近、リスボンもようやく電飾が取り外され、クリスマスの雰囲気は街から消えていった。

そういえば僕が初めてポルトガルを訪れたのもクリスマスの時期だった。リスボンは華やかな電飾で彩られ、街は活気に溢れていた。冬の澄みきった空と太陽が川面に反射する日中と聖なる夜に備えた夜は、単純に僕の気持ちも明るいものにしてくれたのを今でも覚えている。


2008年1月15日火曜日

振り返れば。。。



 さて、そろそろ僕のポルトガル生活も10ヶ月目を向かえ、だんだん日本へと帰る日も近づいてきている。そして、生活の中には今まで過ごしてきた日々を振り返る余裕なんかもでき始めた。
 思えば、最初の頃は事務所の人たちが気を使って話しかけてきてくれたり、ちょっかいを出してきたりいろいろとあった。ポルトガル語の話せない僕に対して、あくまで英語で接してくれること。時にポルトガル語を教えてくれること。僕はこの国に来るまで、英語の国際性をひどく当てにしてきた。それは単純に外国人(僕から見て)はみんな、英語は話せるものだという思い込みであり、思い上がりでもあった。しかし、実際は彼らにとっても英語は外国語であり、母国語に比べればはるかに使いづらいものなのだ。とは言っても、僕よりはるかに上手いけど。(当たり前か。。。)
 しかしそうした状況の中でも、彼らは積極的に接してきてくれたと思う。当初、そうした和気藹々とした雰囲気がこの事務所では普通なのかと思っていた。しかし、だんだんと日本人という物珍しさもなくなり、いつの間にかお互いにとって程よい距離感に納まってくると、あれは彼らの親切な歓迎の印だったのだと気付く。
 残りの数ヶ月、彼らのそうした暖かい視線に僕なりのお返しができれば、と切に思う今日この頃。

2008年1月14日月曜日

壁の意味


バルセロナのスペイン広場に位置するバルセロナパヴィリオン。

建築科の学生でこの建物を知らぬ人はいないほど有名な建物。
何故かと言えば、純粋に壁と屋根だけで構成されたこの建築には一切の無駄や飾りがなく、極限まで純粋性を追求しているからだ。
設計者はMies van der Rohe(ミース・ファン・デル・ローエ)というドイツの建築家。

 僕は教科書で見慣れた建物も実際に訪れてみると、不思議と見慣れた感じがせず、館内をうろうろとしてみる。そして、写真で作られた自分のイメージが如何に本物と違うかという基本的なことを思い出した。しかし、建物の構成は極めて単純なもので、ものの数分で全体が分かる。ところが、なかなか飽きがこない何かがこの建物にはあった。(因みに建物といってもパヴィリオンなので、展覧会用に建てられた一時的なもので、もちろん住んだりするための設備は一切ない。)


 広場に面した大き目の部屋にはビロードの様なカーテンがかかっており、場合に応じて外界と内部を分離できる。カーテンを閉めても、建物端のパティオから採光できるためそれ程、暗くなりそうにない。 このパティオ(写真正面)の大きさが何とも早、写真で見たのと違って、随分と小ぶりに感じたが、実際は程よい大きさだったと思う。

 僕は一枚の水平な屋根の下に建てられた壁が一つの大きな部屋を二つに分けるという単純な美しさのようなものを感じて、その壁の周囲を歩いたてみた。

 正面にその壁を見れば、一つの大きな部屋を視覚的にしっかりと支えており、斜めに見れば、部屋の奥行きがたっぷりと見える。そうした変化が一枚の壁の周りを歩くことで刻一刻と伝わってくる。そして、その壁の厚みの向こう側にもう一つの空間が現れた時、二つに分けられた空気の違いが不意に僕を捉えた。
 その壁は空間を二つに分けながらも、二つは完全に分断されているわけではない。一枚の壁を隔てた反対側でまったく違うことが起こっているかもしれないという予感に、僕はシャッターを切ってみた。

2008年1月13日日曜日

330



旅行の後の写真の整理。

誰かを記念に写すでもない、自分の撮ってきた写真を見ると、一体どうしてそんな写真を撮ったのか考えさせられる事がある。

僕の場合、ほとんどが建物を写すことになるけど、時に何気ない足元の写真や普段の何気ない一幕を撮りたくなる事がある。

多分、それはいい旅をした時だと思う。
何故なら、それは見る旅ではなく、気付く旅だったからだ。